入口の左右にある白い柱、ドアの上にある三角形のペディメントは、新古典様式の特徴

ヒストリックハウス名:オスタリー・パーク・ハウス

所在地域:ロンドン

訪問:2016年9月15日

オスタリー・パーク・ハウス(以下オスタリー)は、16世紀にロンドンの商人トマス・グレシャム卿(Sir Thomas Gresham’s, 1519?-79)が1576年頃に建設した邸宅です。エリザベス一世が、同年にオスタリーを訪問し、「この部屋は、真ん中に壁を作って二つの部屋にしては、どうか」とコメントしたので、グレシャム卿は至急でロンドンから職人を呼び、一晩のうちに壁を作り、翌朝には二つの部屋に仕上げた、という逸話が残っています。

その後、オスタリーは、何人かのオーナーを経て、銀行家のフランシス・チャイルド(1642-1713)の邸宅となります。フランシスは、ゴールドスミス(金細工職人)の丁稚奉公に入り、銀行業を始め成功した人物です。フランシスの14人の息子のうち、4人が成人し、そのうち3人がフランシスの銀行業を継ぎ、この3人が年長順にオスタリーを承継します。

3人の一番年下のサミュエル(Samuel Child, 1693-1752)が死亡すると、サミュエルの息子フランシス(Francis Child, 1735-63)が、1756年に成年になると同時に、21歳でオスタリーを継承します。このフランシスが、今回の主役です。

Francis Child (1735-63) 

フランシス・チャイルド

21歳でチャイルド家の当主となったフランシスは、毎日のようにオスタリーを外から眺めていました。遠くから、そして近くから。

この頃のオスタリーは、1576年にエリザベス一世が訪れた時のままの館で、すでに築後180年。その姿は、オスタリーの現在の姿とは違う長方形の館で、装飾的要素はほとんどなく、「テューダーの古家」でした。

18世紀中頃のイギリスでは、ギリシャ・ローマ時代の建築様式を模した新古典様式による邸宅建築が一大ブームでした。

リチャード・チャイルド(Richard Child, 1st Earl Tylney, 1680-1750, ラストネームは同じチャイルドですが、親族ではないようです)が建てたワンステッド・ハウス(Wanstead House, 1722)、同じ銀行家のホア家が建てたストアヘッド(Stourhead, 1725、本サイト参照)、は新古典様式で建てられた時代の先端をいく邸宅として、上流階級の人々の話題の的でした。

リチャードは、友人や親戚に招かれて、多くの邸宅を訪問していましたが、中庭を囲んで棟が立ち並ぶテューダー様式や、屋根の上にいくつもの飾り煙突が並ぶエリザベス朝式の邸宅は、新古典様式の邸宅と比べると、どうにも古色蒼然としている感じが否めません。

そして、自分の家となったオスタリー。どこから眺めても、なんの工夫もない長方形の建物。「これでは、ただの倉庫だ。。。」と、21歳のフランシスは、館全体の印象を大きく変える改築を決意します。

「理想の邸宅」の実現に情熱を燃やし始めたフランシスは、スコットランド人建築家、ウィリアム・チェンバース(William Chambers, 1723-96)に、オスタリーの改築について相談します。チェンバースは、ジョージ皇太子(のちのジョージ三世)の建築についての指導者で、オーガスタ皇太子妃のキュー・ガーデンの造園計画にも関わっていました。

チェンバースは、オスタリーの西側の入り口にペディメント(破風)を配置し、新古典主義の趣を加えました。そして、庭にいくつもの湖を設け、中国風の東家を配置しました。

チャンバースにより、新古典主義のタッチが加えられたオスタリーですが、フランシスは、さらに洗練された新古典主義様式のオスタリーにしたいという気持ちが高まります。そして、1761年には、新古典主義を得意とし、この時代で最も人気があったとされるスコットランド人建築家、ロバート・アダム(Robert Adam, 1728-92)に相談します。

ロバート・アダム(以下アダム)は、チェンバースと共にジョージ三世の王室建築担当を務める人物でした。

しかし、改築に情熱を燃やしていたフランシスは、1763年に結婚した直後、28歳の若さで病死します。アダムに改築を頼んでから、2年後のことでした。

オスタリーを承継したのは、フランシスの弟のロバート(Robert Child, 1739-82)です。ロバートは、フランシスがアダムと描いていた構想を、ほぼそのまま実現しました。ロバート自身も、建築のみならず古典一般に傾倒していて、ロイヤル・ソサエティのフェロー(会員)であるトマス・モレル(Thomas Morell, 1703-1784)に古事について、教えを受けていたようです。18世紀の古事愛好家の多くがそうだったように、ローマ時代のコインやメダルの収集もしていました。

アダムのプランに基づく改築、改装は1773年頃には、ほぼ完成します。1773年に古事愛好家、詩人のホレス・ウォルポール(Horace Walpole, 1717-97、以下ウォルポール)が、オスタリーを訪れ、各部屋への賞賛を書き残しています。

なかでも、ウォルポールが絶賛したのが、エトルリアン・ドレッシングルーム(The Etruscan Dressing Room )です。この部屋の内装は、ベージュ色の壁にテラコッタの色で、エトルリア人の女性と繊細な模様が連続して描かれていて、異国情緒を感じさせる上品でエレガントな内装です。21世紀になった今みても、新しさを感じられる内装で、時代を超越するアダムの美意識が伝わってきます。

若くして亡くなった兄の望みだった、オスタリーの新古典主義化を実現し、ロバートは肩の荷が下りたように思っていたところ、思わぬ事件がおきます。

ロバートの唯一の子供は、娘のサラ・アン(Sarah Anne Child, 1764-1793)でした。ロバートは、娘にオスタリーとチャイルド銀行の経営権を承継させたいことから、結婚相手は、貴族、ジェントリー階級出身では無い人物を望んでいました。爵位、財産を持つ相手だと、オスタリーと銀行経営権が、相手の資産の一部となってしまい、将来の継承が不透明、ことの成り行きによっては、自分の子孫の手を離れる可能性があるとロバートは思っていたのです。

しかし、サラ・アンは、ロバートの意向とは裏腹に18歳の時に、5歳年上のジョン・フェイン第10代ウェストモーランド伯爵と恋に墜ち、二人はスコットランドのグレトナグリーン(Gretna Green)で駆け落ち結婚をします。

グレトナグリーンは、イングランドとスコットランドの国境近くのスコットランド側の町です。18世紀、イングランドでは親の同意無しに結婚することは、できませんでしたが、スコットランドでは親の同意無く結婚することができたため、グレトナグリーンで駆け落ち結婚をするカップルが、珍しくなかったようです。

自分の意向を無視して、駆け落ちしたサラ・アンにロバートは、怒り爆発でしたが、オスタリーと銀行経営権を親族以外に継承させることは考えられず、ロバートは、自分の継承者は、サラ・アンの「2番目の子供」と特定した遺書を書きます。

怒りが原因なのかどうかは不明ですが、ロバートは、サラ・アンが駆け落ちした1782年に43歳の若さで病死します。ロバートの死後、ロバートの未亡人サラが、1793年に死亡するまでオスタリーの当主となります。

母サラが死亡した同年1793年にサラ・アンも死亡。

そして、ロバートの遺言どうり、サラ・アンの2番目の子供サラ・ソフィア・フェーン(Sarah Sophia Fane Child, 1785-1867)が、オスタリーと銀行経営権を承継します。サラ・ソフィア・フェーンは、ジョージ・ヴィリアーズ(George Villiers, 1773-1859)と結婚し、その自由奔放なふるまいで、社交界で名を馳せたようです。

1867年に82歳で亡くなったサラ・ソフィア・フェーンを継いだのは、孫のヴィクター・アルバート・ジョージ・チャイルド・ヴィラーズ第7代ジャージー伯爵(Victor Albert George Child-Villers, 7th Earl of Jersey )で、その後、第8代ジャージー伯爵、第9代ジャージー伯爵が承継します。

そして、第9代伯爵が、オスタリーをナショナル・トラストに寄贈しました。

駆け落ちしたサラ・アンを、駆け落ち第一世代とすると、実に第五世代まで、オスタリーは、ロバートの直系子孫によって承継されたのです。

ロバートは、一人娘の駆け落ちに、死ぬほど怒りました。しかし、ロバートが新古典様式に美しく改築、改装されたオスタリーは、駆け落ち結婚から繋がる直系子孫を通じて、現代まで残ることになり、「今となっては、よかったですね」と思います。

オスタリーは、ロンドンとヒースーロー空港の間に位置し、旅行者にとってはアクセスが良いところにあります。私が訪れたときは、ガーデン、ハウス共に、殆ど人がいなく、まるで自分の家を散歩しているかのようでした。

ロバート・アダムが施した繊細な漆喰細工が美しく、思わずため息がでたのを覚えています。ハウス内は、撮影禁止だったのか・・・、ハウス内の写真を撮っていないのが我ながら、不思議です。

一人で、静かなガーデンを歩いていてると、オスタリーを美しく仕上げたロバートを、近くに感じられるようでした。

フォーカルポイントに小さな神殿風の東家を置くのは、新古典様式の特徴の一つ
神殿風の東家は、近くで見ると地味でした。ガーデンで見かけた唯一の他ビジター。
エリザベス時代は、四隅の棟、ペディメント(破風)が無い、長方形の建物だった。
lavishly fashioned という表現がオスタリーがピッタリ。

参考 : John Hardy, Maurice Tomlin, Osterley Park House, London: Victoria and Albert Museum, 1985.