ヒストリックハウス名:リーズ・カースル

所在地域:ケント

訪問:2016年6月16日

湖に浮かぶ小島に建つリーズ・カースル
正面入り口

リーズ・カースル(Leeds Castle, 11C, 以下リーズ) は、湖の小島にひっそりと建つ、まるで絵画のように美しい城です。

周囲360度、見る角度により、さまざまに変わるその美しさ。いつまでも見ていたい気持ちにさせられます。

リーズは、中世の五人の王が六人の王妃に贈ったことで知られ、「王妃の城」とも呼ばれます。

リーズを王妃に贈った最初の王は、スコットランドを制した王として名高いエドワード一世(1239-1307)です。エドワード一世が、王妃エリナー・オブ・カスティル(1244-1290)に、王亡き後の王妃の居城として贈りますが、エドワード一世は、エリナーに先立たれてしまいます。

残されたエドワード一世は、二度目の王妃マーガレット・オブ・フランス(1282?-1318)にもリーズを贈ります。そして息子のエドワード二世(1284-1327)は、義母の死後、王妃イザベル・オブ・フランス( 1292-1358)にリーズを贈ります。

次の王、エドワード三世は妻に贈るということはなく、自分の城の一つとしてリーズの大規模改修を行います。

そして、エドワード三世の孫、リチャード二世( 1367-1400)は、王妃アン・オブ・ボヘミア(1366-1394)にリーズを贈ります。リチャード二世の王位を簒奪したヘンリー四世( 1367-1413) は、二度目の妻ジョアン・オブ・ナヴァール(1370?-1437)にリーズを贈り、続くヘンリー五世(1387-1422)は、王妃キャサリン・オブ・ヴァロワ(1401-1437)にリーズを贈りました。

それぞれの王と王妃に、リーズにまつわる興味深い逸話があります。

今回はシェイクスピア作品『ヘンリー五世』で英雄として描かれ、歴史的にもヒーローとして扱われることが多いヘンリー五世と彼の義母ジョアン、妻キャサリンに注目します。

Henry V (1387-1422) 

ヘンリー五世

ヘンリー四世は、リチャード二世から王位を簒奪する前は、ヘンリー・ボリンブログと呼ばれていました。ボリンブログが20歳の時に、妻メアリー・ドゥ・ブーン(1370?-1394)との間に生まれたのが、のちにヘンリー五世となるヘンリー・オブ・マンマス(以下ヘンリー)です。ウェールズ南東の町マンマスで生まれたことから、このように呼ばれていました。

ヘンリーが7歳の時に母メアリーは亡くなり、ヘンリーは10歳になった頃からオックスフォード大学で学び始めます。将来の英国王が大学で学ぶのは歴史的に珍しいことです。これまで将来の英国王が大学で学んだのは、ヘンリーの他には、エドワード七世(1841-1910)と現国王チャールズ三世(1948-)そして、皇太子ウィリアム(1982-)に限られるようです。

しかし、父ヘンリー・ボリンブログが、リチャード二世によって1398年に国外追放処分になると、ヘンリーは人質として宮廷で監視下におかれることになり、オックスフォードでの生活は短期で終わることになりました。

ヘンリーが12歳の時に父ボリンブログは、ヘンリー四世として王位に就き、ヘンリーは皇太子となります。ヘンリー四世が、王妃としてブルターニュ公ジャン・ドゥ・モンフォールの未亡人ジョアン・オブ・ナヴァールを迎えたのは、ヘンリーが16歳の時でした。リチャード二世により国外追放となりボリンブログがブルターニュに住んでいたときに、ジョアンを見染めたのでした。

ヘンリー四世は、先王らに倣いリーズをジョアンに贈ります。

しかし、結婚10年後、ジョアンが43歳のときにヘンリー四世は亡くなり、26歳のヘンリーが王位を継ぎます。

未亡人となったジョアンは、ヘンリー四世から贈られたリーズに住み、ヘンリー五世は義母ジョアンを当初は厚遇していました。

ヘンリー五世は、即位2年後、1415年10月にフランス、カレー南のアジャンクールでフランス軍に壊滅的打撃を与え、歴史的勝利を手にします。その凱旋の際に、ジョアンを「国王の母」として列に加えていたことからも、ヘンリー五世がジョアンに配慮していたことがわかります。

しかし、ジョアンは突然に魔女の疑いをかけられ、リーズの牢獄に入れられます。ジョアンの魔女の疑義については、裁判が開かれることもなく、一方的な逮捕だったようです。

若き王、ヘンリー五世は、フランスにおける失地回復に情熱を燃やしました。

かつてイングランド王が領有したアーンジュ、ブルターニュ、フランドル、メーヌ、ノルマンディー、トゥーレーヌの主権を回復することをめざし、フランスへ進撃を続けていました。アジャンクールでの戦いで勝利を決定的にし、1420年の講和でフランスの半分にあたる北部フランスと南西のギエンヌをイングランド王の主権領として認めさせ、ヘンリーの妻となるフランス王の娘キャサリン・オブ・ヴァロワ(以下キャサリン)の持参金を80万クラウン(フランス側の提示を大幅に上回る額)とすることに成功しました。

戦争をするには、戦費がかかります。勝利すれば相手からの支払いが期待できますが、戦争を進めるにあたり当座の戦費が必要です。そこで、ヘンリー五世は、ジョアンの莫大な持参金に目をつけたのでした。

義母ジョアンに魔女の疑いをかけ、リーズの牢獄に閉じ込め、ジョアンの持参金をとりあえず戦費に流用するという暴挙にでたのです。

ヘンリーは、1421年妻キャサリンを伴って、フランスの失地回復に成功した王として、華々しくイングランドへ戻ります。

しかし、フランスではイングランド占領下で反乱が頻発していました。反乱鎮圧のため1422年急遽フランスに渡ったヘンリーは、長引く戦いの間に赤痢に感染し、北フランスのボア・ドゥ・ヴァンセンヌにおいて、8月に35歳で亡くなります。

王位にあったのは、わずか9年でした。

妻キャサリンは21歳。二人の間に生まれた皇太子ヘンリー(1421-1471、のちのヘンリー六世)は生後8ヶ月でした。

亡くなる直前、ヘンリーはジョアンを牢獄から解放すること、ジョアンの財産をジョアンに戻すことを命じ、その後ジョアンは平和に暮らしたそうです。ジョアンが地位を回復した1422年のジョアンの家計簿がリーズで公開されているそうですが、その家計簿から裕福な暮らしぶりがわかるようです。

しかし、ヘンリー五世が自身の死後、リーズは妻のキャサリンの所有になることを約束していたことから、リーズの当主はジョアンからキャサリンに変わります。

王妃として暮らすリーズ、囚人として暮らすリーズ、そして嫁キャサリンのものになり、もはや自分とは無縁のリーズと、ジョアンとリーズの関係は三度変わったのでした。

リーズの当主は、8ヶ月で王となったヘンリー六世を抱える21歳の未亡人キャサリンになりました。

そこへ登場するのがウェールズ出身のハンサムなオウエン・テューダー( Owen Tudor, 1461d. 以下テューダー)です。テューダーは、王太后付き納戸係秘書という役職で、身分は一介の騎士にすぎませんでしたが、キャサリンと過ごす時間が長く、いつのまにか公然の仲となっていたのでした。

王母であるキャサリンの結婚は議会で禁じられましたが、事実婚であることは変えようがありませんでした。二人の間に生まれた四人の子供のうち、エドマンド・テューダー(Edmund Tudor 1430?-1456)は、のちにエドワード三世の4男ジョン・オブ・ゴーントのひ孫マーガレット・ボーフォート(1509d.)と結婚し、この二人の間に生まれたのがヨーク王家を倒し、テューダー朝最初の王となったヘンリー七世(1457-1509)です。

テューダー朝は、ヘンリー七世、ヘンリー八世、エドワード六世、メアリー一世、エリザベス一世と五人の王、女王により118年間続いた王朝です。

この「テューダー」朝は、納戸係で王太后の愛人だったオウエン・テューダーに起するのでした。

キャサリンは、1437年に36歳で死亡。ヘンリー五世とキャサリンの息子、8ヶ月で即位したヘンリー六世は、15歳でした。ヘンリー六世は、その後39歳のときにエドワード四世(Edward IV, 1442-1483) に王位を簒奪されることになります。

21歳で未亡人となり、母国フランスから離れたリーズで、寂しく佇むキャサリンの姿。

彼女に近づいていくテューダー。そこから生まれたテューダー朝。王の未亡人のあり方としては疑問符がつくのでしょうが、リーズという美しい城がすべてを許容させてしまう、むしろ自然な成り行きのように思えます。

リーズには、白鳥、黒鳥がたくさんいて、餌付けのエサも販売され白鳥の餌やりを楽しみました。鷹匠によるパフォーマンスもあり、鳥類に力をいれているようです。

あちらこちらに、黒鳥や白鳥がいる
白鳥も黒鳥も群れる姿は、見られず。単独行動。

私が訪れたときは、フランスからの校外学習で来ている中学生くらいの子供たちが多数いて、フランス語があちこちで飛び交っていて賑やかでした。ケント州は、フランスから比較的近いことから、フランスから校外学習目的で生徒たちが訪れることが少なくないようです。

特設テントの中で「アジャンクールの戦い」の戦略、戦術、その展開をプロジェクションマッピングで紹介し、ヘンリー五世の勝利を解説しているのを、興味深く見ました。

美しい「王妃の城」は、今はフランス人生徒たちのよき、学びの場になっているようです。