ヒストリックハウス名:カーディフ・カースル

所在地域:ウェールズ

訪問:2013年8月13日

ヴィクトリア時代に建てられたゴシック様式の邸宅

ウェールズの首都カーディフにあるカーディフ・カースルは、敷地内にローマ時代の城壁、ノルマンのモット・アンド・ベイリー式要塞、そしてヴィクトリア時代に改築されたゴシック・リヴァイバルの館の3つがあります。

カーディフ・カースルはローマの要塞として建設され、廃墟の時代を経てノルマンの要塞へ。そして、数多くの貴族の邸宅としての時代が過ぎ、1860年代に結婚によりスコットランドの貴族、ビュート伯爵家(のちに侯爵)の邸宅の一つとなります。

ノルマンの遺構が改築されたゲート
入り口をはいると、ノルマン時代のキープが見える
ノルマンの要塞のキープ、ウェールズの旗がたなびく(現在はカーディフ市が所有)
要塞トップから、ゲートをみる、写真には写らないが、右手にゴシック様式の邸宅がある

ビュート伯爵の主たる領地は、スコットランドのビュート島です。ウェールズ南部カーディフは、ビュート伯爵家にとっては、飛び地のような存在でしたが、後に、この地から莫大な富を得ることになります。

ビュート伯爵家の18世紀から19世紀の人物を、見てみましょう。

ジョン・ステュアート第3代ビュート伯爵( John Stuart, 3rd Earl of Bute, 1713-1792)は、ジョージ二世時代の皇太子フレデリック (Frederick Louis, 1707-1751)と競馬場で知り合いになり意気投合し、フレデリックの側近となりました。フレデリックが父親ジョージ二世に先立ち死去した後は、フレデリックの息子で皇太子となったジョージ(のちのジョージ三世、1738-1820)の家庭教師となります。ジョージ三世は1760年の国王即位後、ビュート伯を廷臣として重用し続けました。(本サイト、「Clivdenクリブデン・オーガスタ編:歓喜と絶望、王妃になれなかったプリンセス・オブ・ウェールズ」参照。)

重用されたビュート伯は、ジョージ三世治世下で、短い期間ですが首相を務めました。在任中に、アメリカ植民地に増税を強いたことが、アメリカ独立のきっかけになったとされ、あまり人気のない首相だったようです。

ビュート伯は、植物学が趣味で崖に生える植物を取ろうとして転落。その事故で被った怪我が原因で、亡くなりました。

第3代ビュート伯の息子、ジョン・ステュアート、第4代ビュート伯爵(John Stuart, 1st marquess of Bute, 1744-1814)は、第4代ビュート伯爵として爵位を継ぎますが、1794年にジョージ三世よりビュート侯爵に叙爵され、初代ビュート侯爵となりました。

ジョン・ステュアートは、ペンブルック伯ハーバート家の女相続人シャーロット・ジェイン・ウィンザー(Charlotte Jane Windsor)と1766年に結婚し、カーディフ・カースルは、ビュート伯爵の数ある邸宅の一つとなります。

当時、子供が女子のみの場合、女性が女相続人として父親の財産を引き継ぎ、結婚すると夫の財産の一部と見なされ、次の世代へと引き継がれるのが一般的でした。

ジョンは、息子ジョン(John Stuart, Lord Mount Stuart, 1767-1794) の住居とするために、ビュート家の邸宅となったカーディフ・カースルの改築を始めました。

しかし、息子ジョンは27歳の若さで、落馬事故がもとで死亡。

ビュート侯爵を継ぐのは、若くして死亡したジョンの息子、ジョン・クライトン・ステュアート(John Crichton-Stuart, 2nd Marquess of Bute, 1793-1848) となりました。ジョン・クライトン・ステュアートは、父親を1歳で亡くしたあと、母親と暮らしていましたが、母が亡くなると、祖父の初代ビュート侯爵に引き取られ、ビュート侯爵から「領主教育」を受けながら育つこととなります。

第二代ビュート侯爵ジョン・クライトンは、ビュート伯爵家にとって飛地であったウェールズ南部で、石炭・鉄産業を発展させ、カーディフ・ドッグを建設します。

この建設で、カーディフは世界でも有数の産業港に様変わりし、大きく発展しました。ジョン・クライトンは、莫大な富を築き、のちに「近代カーディフの創設者」と呼ばれます。

ジョン・クライトンはレディ・マリア・ノース(Lady Maria North)との最初の結婚では子供を得ず、二度目のレディ・ソフィア・クウェデン・ヘイスティングス(Lady Sophia Rqwden-Hastings)との結婚で唯一の子供、ジョン・パトリックを得ます。

しかし、ジョン・クライトンはジョン・パトリックが生まれた翌年に54歳で死去してしまいます。1歳で父親を亡くしたジョン・クライトンは、1歳の息子を残し、亡くなったのでした。

今回の主役は、1歳で「近代カーディフ創設者」と呼ばれる父を亡くし、第3代ビュート侯爵となったジョン・パトリックです。

John Patrick Crichton-Stuart, 3rd Marquess of Bute( 1847-1900)、第3代ビュート侯爵ジョン・パトリック・クライトン・ステュアート

ジョン・パトリックは1歳で父を亡くしたあと、アイルランド系カトリック教徒である母ソフィアに育てられます。ところが、母ソフィアはジョン・パトリックが12歳のときに亡くなってしまいます。

その後、ジョンは親族の邸宅、ギャロウェイ・ハウス(Galloway House )で、同年代の子どもたちと共に養育され、ハロー校、オックスフォード大学クライストチャーチ・コレッジで学びました。

オックスフォードで、ジョン・パトリックは宗教の探究に没頭します。

古代宗教、ユダヤ教、仏教、イスラム教、エジプト宗教、ギリシャ・ローマ時代の宗教、東方・西方両キリスト教などを探究した結果、ジョン・パトリックは、19歳の時に、自身がカトリックに改宗するという決意をします。

本人が繰り返し、述べていることですが、改宗の決意は、誰か特定の人物から影響を受けた結果ではなく、自分自身の宗教研究の結果に依るものだということです。

しかし、ヴィクトリア時代のイングランドでは、カトリックは異端視されていました。父の死亡によりすでに侯爵位にあり、広大な領地の領主、カーディフの大事業主であるジョン・パトリックの改宗は、個人の自由、で済まされることではありませんでした。

未成年のジョン・パトリックは、親族の法定後見人達から、猛反対を受け、せめて成年(21歳)になるまで保留すべきと、強力に諭されます。

情熱的であっても無法者ではないジョン・パトリックはしぶしぶ改宗を諦め、21歳になると「満を期して」、カトリックに改宗します。

ヴィクトリア時代に首相を務め、作家でもあったディズレーリ(Benjamin Disraeli, 1804-1881)は、ジョン・パトリックをモデルにした小説『Lothair』を1870年に発表し、大ヒット作となりました。若き侯爵ジョン・パトリックの改宗は、少なくとも上流階級の間では大ニュースだったようです。ディズレーリは、すぐに執筆し発表。ディズレーリの「機を見るに敏」力が伝わってきます。

若きビュート侯爵ジョン・パトリックはスコットランドのビュート島とウェールズ南部などの領主です。開放的な港町、カーディフではジョン・パトリックの改宗は概ね好意的に受け入れられたようですが、スコットランド、ビュート島では当初、かなり抵抗があったようです。しかし、ジョン・パトリックと領民の間で信頼関係が徐々に築かれ、後年には、問題視されることはなくなったようです。

カトリックに改宗したジョン・パトリックは、ローマ、エルサレムをたびたび訪れ、自分の死後、自分の心臓をエルサレムに埋葬させることを決めます。

そして、自身のカトリックへの情熱を形にする活動、それは主に出版と建築でした、にイングランド最高とも言われた財力とオックスフォードで培った知力を注ぎ続けます。

出版においては、ラテン語で書かれたカトリック神父の日課書(Roman Breviary)を自ら英語に翻訳し、自費出版します。

そして建築においては、教会の再建、大学附属施設の建築、自邸の改築に取り組みます。ジョン・パトリックの53年間の人生における建築実績は驚くべき多数で、後にジョン・パトリックは、「ヴィクトリア時代後期の、最も偉大なアマチュア建築家」と呼ばれます。

カーディフ・カースルの改築は、1868年、ジョン・パトリックが成年になってすぐに始まりました。

ジョン・パトリックは、ゴシック様式を得意とする建築家ウィリアム・バージェス(William Burges, 1827-1881)と共に、カーディフ・カースルを他に例をみないと言われる見事なゴシック様式の邸宅に、変身させます。

圧巻なのは、その内装です。グレートホールの壁面には、12世紀初頭にカーディフ・カースルに幽閉されていたノルマンディー公ロバートの時代の城が描かれています。

この内装の「拘り(こだわり)」といったら! ジョン・パトリックの「妥協しない姿勢」が時代を超えて、伝わってくるようです。「内装」というよりも、壁を使った「芸術品の展示」といった様相です。

ジョン・パトリックの「拘り」の内装で埋め尽くされた、グレートホールの壁面

天井の梁に、ちりばめられている紋章は、紋章研究家でもあったジョン・パトリックが入念にその位置を決めたことでしょう。

紋章が散りばめられている、グレートホールの天井。

しかし、カーディフ・カースルの改築は、ジョン・パトリックの建築実績のほんの一部でしかありません。

彼が関わった建築の一部を、以下に挙げます。

カーディフ、セント・ジョン教会

グラモーガン(Glamorgan)地域の複数の教会

廃墟になっていた12世紀のコーガン(Cogan)の教会の再建

廃墟になっていた11世紀のスコットランド、ロスシーの教会の再建

廃墟になっていたセント・ブレーン(St. Blane)教会の再建

ウェスター・カーメス(Wester Kames) 教会の再建

ビュート島のセント・マイケル・チャペル(Kilmichael Chapel)の周囲壁の再建

ビュート伯爵家の主邸であるマウントスチュアート(Mount Sturart)の再建(1877年火事で焼失)

セント・アンドリュース大学(University of St Andrews) の修道院の発掘、再建

プラスカーデン(Pluscarden) の教会改築

エルジン(Elgin)の教会改築

フォークランド(Falkland )の教会改築

ガルストン(Galston )の教会改築

ロウドン・カースル( Laudoun Castle)に新教会を建設

オーバン(Oban)大聖堂の新築

などなど

ヴィクトリア時代後期、ジョン・パトリックが関与しないカトリック関連建築は無しと言われたようで、資金供与、デザイン監修など、なにかしらで関わっていたようです。カトリック総本山のローマ、聖地エルサレムをたびたび訪れ、勉強熱心、カトリックへの情熱に溢れていたジョン・パトリック。カトリック教会に関連するゴシック建築について、右にでるものはいないという感じだったかもしれません。

各建築現場には、頻繁に出向き、教会廃墟の発掘を、自らが主導することも多かったようです。自邸では、カトリック神父のような服装でくつろいでいることもあったようで、「ゴシック」マニアだったんですね、と声をかけたくなってしまいます。

教育に熱心だったジョン・パトリックは、大学にも多くの関わりを持ちました。

カーディフ大学の新設には、1万ポンドを寄付、グラスゴー大学にはホールの建設費用を寄付、エディンバラ大学、セント・アンドリュース大学からは名誉学位を贈られています。

ジョン・パトリックは、大学への貢献、そしてその知力と情熱への尊敬から、グラスゴー大学、セント・アンドリュース大学の名誉総長(Lord Rectorship)に選ばれます。

しかし、ジョン・パトリックが名誉総長であったときに、セント・アンドリュース大学のダンディーへの移転案が提起され、この移転案は一大論争となります。

結果的には、ジョン・パトリックが主張したとうりに、同大学はセント・アンドリュースに止まることとなるのですが、そのストレスが持病の腎臓病に悪影響を及ぼしたのか、ジョン・パトリックは53歳という若さで1900年10月9日に死去します

亡くなった場所は、所有する邸宅の一つスコットランドにあるダンフライ・ハウス(Dumfries House) でした。

ジョン・パトリックはダンフライ・ハウスを「最もくつろげる家」(the homeliest )と表現していました。ゴシック建築に情熱を傾けたジョン・パトリックですが、ダンフライ・ハウスは少なくとも外観は新古典様式のように見えます。

内装はゴシックの真髄を極めているかもしれません。いつか、同邸宅を訪れてみたいものです。

ヴィクトリア時代はゴシック建築が盛んで、ピュージン( Augustus Welby Northmore Pugin, 1812-1852),  バリー(Chales Barry, 1795-1860), スコット(George Gilbert Scott, 1811-1878) らが、プロのゴシック建築家としてよく知られます。また、『建築の七燈」を始め多くの著作があるジョン・ラスキン(John Ruskin, 1819-1900)が、ヴィクトリア時代のゴシック評論家として知られますが、自らが主導して建築した建築物は、無いようです。

ピュージン、バリー、スコットら、プロがてがける建築は、常に施主と予算と共にあります。よって、自身の信念や情熱を、ストレートに建築に反映できるとも限らず、往々にして施主と建築家の妥協点で建物が出来上がる、ということもあるようです。

しかし、ジョン・パトリックの場合は、自らの資金と知識を、ゴシック建築に注ぎ込み、自分の意向「そのまま」を形に残したといえそうです。

ジョン・パトリックは、死後、自分の心臓を聖地エルサレムに埋蔵するように遺言を残していました。葬儀のあと、彼の心臓は、妻と子どもたちに付き添われ、聖地エルサレムに行き、遺言どうり埋葬されました。

ウェールズ訪問では、カーディフ・カースルも思い出深いのですが、もっと強烈な思い出があります。

宿泊していたホテルで、夜半に火事がおき、外へ緊急避難するという事態になったのです。耳をつんざくような警報ベルが鳴響き、非常階段を降りたものの、非常階段から外へつながるドアがどうしても開かず、煙の匂いがしてくる中、もはや最後かと思ったところ、屈強な男性二人が体当たりで開け、無事に避難。外にでると、煙がいっぱいで驚きました。後から思うと、キッチン隣の非常口だったようです。

数えきれないほどの消防車が消火している間、消防士から渡された銀色のシートにくるまって、恐怖と寒さで震えていました。8月半ばでしたが冷え込みが厳しかった。

消火が終わり、あっさりと、もう大丈夫ということになり、ホテル側の謝罪などは、ないまま部屋へ戻り、休みました。

・・・翌日になり、エレベーターに乗ると、「昨夜、ボヤが起きました。キッチンからの出火でした。」と書かれた紙が貼ってあり、朝食を食べるカフェに行くと、何事もなかったように、朝食がサーブされました。

当分は、ウェールズ=火事、ということで、足が遠のきましたが、ウェールズには訪れたい古城がいくつもあり、また訪れたいと思うようになっています。

ゴシック様式の邸宅前から見る、ノルマン要塞

参考 :

David Hunter Blair, John Patrick – Third marquess of Bute, K.T. – 1847-1900 – A Memoir, London: John Murray, 1921.

Roger Dixon and Stefan Muthesius, Victorian Architecture, London: Thames and Hudson, 1978.