ヒストリックハウス名:ホリールード・ハウス宮殿

所在地域:スコットランド

訪問:2017年7月23日

正面玄関のスコットランド王家の紋章、ユニコン2頭がライオンのシールドを支える

スコットランド王家は、古くはリンリスゴー宮殿、エディンバラ城、スターリング城、フォークランド城など、多くの拠点を持っていました。しかし現在において、王族が拠点とするのは、ホリールード・ハウス宮殿(以下ホリールード)のみです。

スコットランド王家の城、それぞれの歴史を見ると、湖近くのリンリスゴーは王家の別荘(本サイト、リンリスゴーパレス参照)、エディンバラは軍事基地、スターリングはイングランドとの戦争拠点かつ王族の避難所、フォークランドは狩の拠点といった印象です。そして、ホリールードは、イングランドにおけるウィンザー城のように、王族の歴史的「実家」のような存在です。

リンリスゴー(廃墟)、エディンバラ、スターリングは現在は一般に公開され、王族は滞在しないようです。

ホリールード500年の歴史は、スコットランド王家の歴史。

そこには興味深い史実が、多くあります。そこで、今回の<前編>では、ホリールードを建設したジェイムズ四世を中心に、来月アップ予定の<後編>では、ホリールードを拠点に宗教改革を企んでいたイングランド王ジェイズ二世(スコットランド王としてはジェイムズ七世)を中心に、2回に分けて書きます。

ホリールードの史実で、一般によく知られているのは、メアリー・オブ・スコッツ(Mary Stuart, 1542-1587)と関係する「リッチオ殺害事件」です。この事件についても、後編で少しふれたいと思います。

James IV of Scotland (1473-1488-1513)、スコットランド王ジェイムズ四世

ジェイムズ四世の父親、ジェイムズ三世(James III of Scotland, 1452-1460-1488)はアンガス伯アーチボルド・ダグラス(Archibald Douglas,1449?-1514)、アーガイル伯コリン・キャンベル(Colin Cambell, 1st Earl of Argyll, d.1493.)らスコットランド有力貴族の謀反により惨殺されました。15歳だった皇太子ジェイムズは、謀反をおこした貴族勢力につくことに同意しましたが、それは父親を軽く「こらしめる」といった気持ちからで、父親が殺害されるなどとは想像もしておらず、父親の死を深く悼みました。

そして、父親の亡骸を前にし、自戒と統治への決意を誓う印として、鉄の鎖のベルトを生涯、肌身から離さないと決めました。

15歳のジェイムズ四世(以下ジェイムズ)は、青年王を前に好き勝手に振る舞い、反旗をちらつかせる有力貴族たちを巧妙に支配し、スコットランドの統治を固めていきます。ジェイムズの反抗勢力に対する扱いは中世においては異色でした。

謀反を起こした、又起こそうとする反抗貴族を処刑せず、領地は没収するものの他の領地を与えて忠誠を誓わせ、忠誠が確認できると責任ある地位まで与えたのです。

スコットランドでは、父王、祖父王の時代から、有力貴族の謀反や、部族間の不和が絶えることがありませんでした。そこで、処刑→反逆→処刑の負の連鎖を止め、叛逆を企てても、有能な人物は生かして国のために役立てる、というのがジェイムズの考えでした。

すでに16歳から、反抗貴族の対処に成功しており、生まれながらに統治の才能を持つ人物だったと言えるでしょう。

ジェイムズは、反抗する有力貴族だけでなく、スコットランド各地を占拠するクランと呼ばれる氏族たちの統一にも乗り出します。

ジェイムズは、語学の天才として知られ、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ラテン語、そしてスコットランド各地の方言をふくむゲール語を自在に話しました。

ジェイムズの庶子たちの教育を担当した著名な人文主義者エラスムス(Desiderius Erasmus, 1465-1536)は、ジェイムズのことを「知力に満ち満ち、すべてのことに信じられないほどの知識を持っていた」と書き残し、スペイン大使アヤラ(Pedro de Ayala)も、ジェームズの語学力が抜群であることに驚いた報告を、本国に送っています。

語学を自在に操るジェイムズは、スコットランド各地の部族たちと彼らの方言で話し、次第に友好な関係を築いていきました。

10代で王となったジェイムズは、不穏な有力貴族、全土に散らばるクランを円滑に取り仕切り、勇気があり、高貴で、狩猟、スポーツ、音楽、金属工作にまで秀れた美男子で、理想の男性とも称され、国民に好かれていました。

ジェイムズの政策により、軍事も著しく進化し、当時のヨーロッパで最大級といわれる戦艦グレート・マイケル号が建造されました。また文化面では、ルネッサンスの時代を迎え多くの詩人が活躍し、ジェイムズはアバディーンにキングズ・カレッジを設立します。自分でリュートも奏でるジェイムズは、地方に出かけるときは、宮廷楽団を必ず連れていき、スコットランド全土に音楽を普及させました。

このように理想の王と言われた独身のジェイムズが、結婚を決めた相手は、ヘンリー七世の娘、マーガレット・テューダー(Margaret Tudor, 1489-1541)でした。この結婚はイングランド、フランス、スコットランドの政治的思惑から、ヘンリー七世がジェイムズに強硬に、提案したものでした。

婚約が決まったとき、マーガレットは10代前半であったので、結婚式は、マーガレットの成長を待ち、2年後となります。結婚までの間、ジェイムズは、マーガレットを迎えるために、ホリールード宮殿の建築、他宮殿の改修を始めます。

ケルトの時代からあるホリールード教会は現在は、廃墟。ジェイムズ四世はホリールード教会に隣接して宮殿を建て、宮殿内にチャペルを造った。

ホリールードには、ケルトの時代から小さな教会がありました。ホリールードの地はエディンバラの街の外れで、エディンバラ城が建つ丘のふもと。しかもすぐそばには高い山があり、どこからも攻められやすい、要塞としては全く適さないところです。

しかし、古くから教会があるこの地に、ジェイムズは、花嫁のために新宮殿を建てることを決めます。

ジェイムズは、センスが良く、スタイリッシュで豪華な服装を好んだことでも知られます。

ジェイムズはホリールードの内装にも力を入れ、新築の宮殿では、当時贅沢品であった高級タペストリーで壁を覆い、高級カーペットを床に敷き詰めます。記録には残りませんが、タペストリー、カーペットの柄にもきっとこだわったことでしょう。

ホリールードは、ジェイムズの感性で美しく仕上げられ、花嫁マーガレットを迎えます。

マーガレットには、金銀の糸で花の刺繍がされた真っ白のダマスクシルクの戴冠式用ドレスを用意されました。マーガレットには結婚と同時に、王妃戴冠の儀式もあったのです。

ジェイムズから花嫁へのウェルカムギフトとして、各国のさまざまな金貨、数えきれないほどの高級馬が贈られました。そして1503年8月8日、新築のホリールード宮殿で、ジェイムズとマーガレットの結婚式が行われました。

マーガレットを迎えた正面玄関広場

イングランドから来た15歳の花嫁は、華々しいホリールードで、30歳の「理想の男性」国王ジェイムズにより迎えられました。結婚式と1週間続いて行われた祝宴は、表現する言葉が見つけられないほど、豪華絢爛を極めるものでした。

ライオンは、スコットランドを象徴する動物ですが、ジェイムズは、結婚後、ホリールードに「ライオンズハウス」を建て、生きたライオンを飼っていました。ライオンの存在は、王の存在に生々しい「脅威」感を添えていたことでしょう。

マーガレットとの結婚により、二人の子孫はイングランドの王位継承権を持つことになります。2人の曽孫で、イングランド王位継承権を持つジェイムズ六世(James VI of Scotland, James I of England, 1566-1603-1625)は、エリザベス一世( Elizabeth I, 1533-1558-1603)の逝去後、イングランド王に即位し、イングランド王を兼任する初めてのスコットランド王となります。そして、その血脈は現王チャールズ三世まで、500年以上に渡り、続いています。

ジェイムズとマーガレットの結婚は順調で、四男二女が生まれますが、三男のジェイムズ(のちのジェイムズ五世, 1512-1513-1542)以外は、1歳未満で夭折しました。

二人の結婚は順調でしたが、イングランドとの間はもつれ、1513年6月にジェイムズはフロドゥンでイングランド軍と戦い、戦死します。このフロドゥンの戦いは、スコットランド軍がもつ優れた大砲よりも、訓練されたイングランド軍が持つ長槍が圧倒的に威力を発揮した野戦であったと言われています。敗死したジェイムズの遺体は、今も行方不明ということです。

ジェイムズが戦死した時、マーガレットは24歳。1歳と5ヶ月のジェイムズが、ジェイムズ五世として即位、マーガレットは、有力貴族アンガス伯アーチボルド・ダグラス(1489?-1557)と再婚します。マーガレットとダグラスの孫が、ダーンリー卿(Henry Stuart, Lord Darnley, 1545-1567)で、前出のイングランド王となるジェイムズ六世の父親です。

ジェイムズ六世の母親はメアリー・オブ・スコッツで、ジェイムズ五世の娘。ジェイムズ六世は父と母の両方からマーガレットの血を受け継いでいたのです。

マーガレットは、12年後アンガス伯とは離婚、年下のメスバン卿ヘンリー・ステュアート(1495?-1551?)と再再婚。その後、1541年にパース西北のメスヴァン城(Methven Castle)で52歳で亡くなりました。

15歳で「理想の男性」と豪華な内装の「新築の宮殿」に迎えられたマーガレットでしたが、ジェイムズの死後は、幼王の母として絶えず政争に巻き込まれる日々でした。

結婚当時は、新築で眩いばかりだったホリールードも、マーガレットが40代半ばを過ぎる頃には、築後30年が経ち、あちらこちらが傷んで朽ち、修繕する人も予算も無く、ただ、ただ、古びていくのでした。

ホリールードを訪れた日は、雨天で人は少なく、ガーデンのガイドツアーは、私と友人の二人だけでした。ガイドさんは、タータンのスカートにかわいいマントを着ていました。

ガーデンの至るところに、スコットランドの象徴である「アザミ」が咲いているので、私が「これは、スコットランドの象徴ですよね!」と言うと、ガイドさんがクールに「そうだけど。。。ま、雑草よね!」と返したのが、忘れられません。

案内してくれたガイドさん、マントがかわいい

宮殿の隣に建つ、ホリールード教会は、現在は廃墟になっていて、情感たっぷりです。ドイツ人作曲家メンデルスゾーン( Felix Mendelssohn, 1809-1847)は、1829年にホリールード教会廃墟を訪れて感動し、スコットランド交響曲(The Symphony No.3)を作曲したそうです。物悲しい曲調で、雨のホリールードに合います。

ホリールードでは、現国王チャールズ三世の妹プリンセス・アンの娘ザラと元ラグビー選手マイク・ティンデルの結婚披露宴が2011年7月に盛大に行われました。マーガレットは、微笑みながら、どこかから、見守っていたかもしれません。

次回ホリールード<後編>では、メアリー・オブ・スコッツを少し、そしてイングランド王ジェイムズ二世について書きます。お楽しみに!

参考 :

John Harrison, The History of the monastery of the Holy-Rood of the Holy-Rood, and of the Palace of Holyrood House, William Blackwood and Sons, 1919.

森護、『スコットランド王国史話』、大修館書店、1988.