ヒストリックハウス名:ホリールード・ハウス宮殿

所在地域:スコットランド

訪問:2017年7月23日

ホリールード宮殿の隣にあるホリールード教会、現在は廃墟。

ホリールード・ハウス宮殿<前編>では、宮殿を建設したスコットランド王ジェイムズ四世と妻、マーガレット・テューダーについて書きました。今回は、ジェイムズ四世とマーガレットの孫メアリー・オブ・スコッツ(Mary Stuart, 1542-1587、以下メアリー)とメアリーの曾孫ジェイムズ二世(James II,1633-1685-1688-1701)について書きます。

メアリーは、生後6日間でスコットランド女王に即位しました。病床にあった父ジェイムズ五世(1512-1513-1542)が亡くなったためです。その後、幼少期をフランス宮廷で過ごし、15歳になると1558年4月に1歳下のフランス皇太子フランソワ(Francois II de France, 1544-1560) と結婚。翌年1559年7月に義父アンリ二世(Henri II de France, 1519-1559) が急逝し、夫フランソワが15歳でフランソワ二世として国王になると、メアリーは16歳でフランス王妃になりました。しかし翌年1560年12月に病弱のフランソワ二世が他界し、メアリーは18歳になったばかりで未亡人となります。メアリーには、子供がいなかったため、翌年1561年に、メアリーは母国スコットランドに13年ぶりに帰ります。

スコットランド女王メアリーが戻ったのは、ホリールードです。

1565年7月に、従兄弟ダーンリー卿ヘンリー・スチュアート(Henry Stuart, Lord Darnley, 1545-1567)とホリールードで式を挙げ再婚。しかし、二人の間は半年を待たず、険悪になります。1566年3月メアリーが信頼する側近、イタリア人ダヴィッド・リッチオ(David Riccio, 1533?-1566)が、ホリールードで惨殺され首謀者はダーンリー卿と断定されました。

この事件でメアリーとダーンリー卿の仲は決裂。3ヶ月後、同年6月にメアリーは息子ジェイムズ(ジェイムズ六世、1566-67–1625)を出産。その半年後、ダーンリー卿は1567年2月、エディンバラの教会のロッジで爆発に巻き込まれ死亡します。

この爆死はメアリーとメアリーの側近ボスウェル伯ジェイムズ・へバーン(James Hepburn, 4th Earl of Bothwell, 1535?-1578)によって企まれたとされました。同年5月、夫の死からまだ3ヶ月という時に、メアリーは、ボスウェル伯とホリールードで結婚式を挙げました。

しかし、スコットランド貴族たちは、メアリーとボスウェル伯を許さず、メアリーは退位させられ幽閉の身となり、1歳のジェイムズがジェイムズ六世となります。

メアリーはこのあと、各地を転々としイングランドでの幽閉を経て、1587年にエリザベス一世により処刑されます。ボスウェル伯はノルウェーに逃れましたが、デンマークで投獄され、1578年に発狂し獄死しました。

1542年 生後6日で女王に即位

1558年 15歳、フランス皇太子と結婚

1559年 16歳、夫のフランス王即位で、フランス王妃に。

1560年 18歳、夫の死亡で未亡人に。

1561年 19歳、スコットランド女王として、スコットランドに帰国。

1565年 23歳、ダーンリー卿と再婚

1566年 24歳、リッチオ殺害事件、息子ジェイムズを出産

1567年 25歳、夫ダーンリー卿爆死、ボスウェル伯と再再婚、女王廃位で幽閉へ

1587年 44歳、イングランドにて処刑死

メアリーは、すらりと背が高く、立ち振る舞いが優雅で美しく、気高く、魅力的な女性だったと言われます。

メアリーの人生が崩れだすのは、リッチオ殺害事件からです。

リッチオ殺害事件は、映画やドラマでは、ダーンリー卿の嫉妬が原因と匂わせるものもありますが、実際は、宗教に絡む国政問題の表出でした。

スコットランドでは、メアリー女王の不在中、長老教会によるプロテスタントへの宗教改革が進み、1560年にはローマ法皇の権威はスコットランドにおいては否定され、ラテン語によるミサの禁止が議決されるまでになっていました。

そこへ、帰ってきたのがカトリック”一徹” のメアリー女王で、貴族たちはメアリーがいつ国政へカトリックを持ち出してくるかと、戦々恐々としていたのです。

イングランドで、カトリック”一徹” のメアリー一世(1516-1553-1558)が、数百人のプロテスタントを火炙りにしたことは、当時まだ記憶に新しく、カトリックの女王は恐怖の対象であり、監視の対象でもあったのです。

メアリーの側に四六時中いるイタリア人のリッチオは、ローマ教皇のスパイと言われ、貴族たちは神経を尖らせていました。そこで、貴族たちは、恐怖への対処として、まずはローマ教皇の(おそらく)手先であるリッチオを消すべき、ということになり、事件に至ったのでした。

実際にリッチオを刺殺する計画を練ったのは、枢密院議長のモートン伯爵、プロテスタント長老派のトップの一人であるリンジー卿、枢密院メンバーのルスベン卿とその妻でした。カトリックは絶対NGという国政の権力を牛耳る、プロテスタント一徹メンバーです。ホリールードの別館に住んでいたルスベン卿がリッチオを惨殺する暴徒をホリールードに連れ込み、リッチオを惨殺させたのでした。

そして、カトリックVSプロテスタント問題は、時代を下って再び… メアリーの曾孫によって、ホリールードを舞台に起こります。

James II (1633-1685-1688-1701)、ジェイムズ二世

チャールズ二世(1630-1660-1685)による王政復古後、スコットランドの実質的な統治は、1679年からスコットランド総督となった王弟ジェイムズ(のちのジェイムズ二世、以下ジェイムズ)によって行われていました。

ジェイムズは、公妃アン・ハイド(1637-1671)が亡くなると、カトリック信者であることを公然と表明したうえ、1673年に、カトリックのメアリー・オブ・モデナ(1658-1718)を妻に迎えたため、イングランドの貴族たちは、カトリックの王弟夫妻に強い拒否感を示していました。

そのような事情から、イングランドでの居心地があまりよくなかったジェイムズですが、スコットランドでの滑り出しは悪くなく、評判も良かったようです。

スコットランド総督としてホリールードに住むジェイムズは、ホリールードのカトリック的改装の構想と同時に、イングランド・スコットランドのカトリック化のプランを、密かに練っていました。

1685年に兄チャールズ二世が逝去し、イングランド国王としてはジェイムズ二世、スコットランド国王としてはジェイムズ七世として即位すると、ジェイムズはスコットランド議会と枢密院を完全な支配下におきます。

まず、スコットランドにおけるカトリック教徒の礼拝の自由を認めさせ、87年には、イングランドでは強い反発を招いたカトリック寛容政策の実現にも成功します。

そして、ジェイムズは、ホリールードを拠点として、スコットランドのカトリック化を本格的に始動させます。

まず、最初はコミュニケーションから。ホリールード宮殿のすぐそばに、印刷職人ジェームズ・ワトソンに印刷所と店を与え、カトリック信仰を拡めるための印刷物を作らせる勅許を与えます。ワトソンだけが、国の許可不要で、印刷物を作り、販売することが許されたのです。

そして、次は教育です。ホリールード宮殿の一部を、イエズス会学校とし、宮殿の中にカトリックの学校が設立されます。続いて、儀式。ホリールード宮殿内のチャペルを、本格的なカトリックチャペルに改装することが決められ、カトリック騎士団の任命式を行うのに必要な装飾、設備を整える改装工事が、1689年12月の完成を目指して、着々と進められていました。

しかし、1688年11月5日に、カトリック化に反発するイングランド貴族たちが招いたオレンジ公ウィリアム(William III, 1650-1689-1702)がイングランドに上陸し、軍をもたないジェイムズは恐れ慄き逃亡。ジェイムズは国王の地位をあっけなく放棄します。これはのちに「名誉革命」と呼ばれます。

ウィリアムスの上陸を知ったスコットランドの群衆は、カトリック内装へ改装中だったホリールードに殺到し、押し入りました。プロテスタントの群衆はホリールードを二日間占拠して、チャペル、隣接するチャーチの全てを破壊し、焼き払いました。

群衆が押し寄せた、玄関前広場

ジェイムズ御用達のワトソン印刷所も、全て焼き払われ、灰と化しました。

メアリー女王の時代から、国政を取り仕切る枢密院は、ホリールードで議事を行なっていました。

ステュアート朝の王たち、ジェイムズ一世、チャールズ一世、二世、ジェイムズ二世は、議会は開かず、少人数の貴族で構成される枢密院に国政を行わせていました。

ホリールードはいわば、スコットランド国政の心臓部でした。

1688年の名誉革命後は、スコットランドも議会を持つようになり、ホリールードで議会が開かれるようになりました。

現代では、スコットランド国会議事堂は、ホリールード宮殿から離れ、宮殿の目の前にある横断歩道を渡ったところにあります。とてもモダンな建物です。

手前にホリールード宮殿があり、信号がある横断歩道を渡ったところに、国会議事堂がある。議事堂の前には、イギリスとスコットランドの旗が並ぶ。
右の表記は、ゲール語でしょうか?
おしゃれな柵デザイン。

ホリールードの地にスコットランド国会議事堂があるのには、こうした歴史的な背景があってのことでしょう。

宮殿を見学したあと、スコットランド国会議事堂も見学したかったのですが、月曜日で議事堂は休館日で入れませんでした。議事堂はホリールード宮殿とは対照的とも言える現代建築で、テレビで見ると、内装もイングランドの議事場とは全く違うモダンな内装です。

リッチオが殺害された場所は、2階にあるメアリーのこじんまりした私室へ、1階からつながる狭い階段を上がったところです。何人もにより、滅多刺さしにされたリッチオの出血は相当だったそうで、今も血痕が床に残っています。そのような現場を見たホリールードでは、しんみりした気持ちになりましたが、外へでてモダンなスコットランド国会議事堂を見ると、なにか明るい気分になったのでした。

参考 :

John Harrison, The History of the monastery of the Holy-Rood of the Holy-Rood, and of the Palace of Holyrood House, William Blackwood and Sons, 1919.

森護、『スコットランド王国史話』、大修館、1988.

今井宏他、『世界歴史大系 イギリス史2 ー近世ー』、山川、1990.