ヒストリックハウス名:カースル・メンゲス
所在地域:スコットランド
訪問:2023年6月29日

カースル・メンゲスのウェブサイトには、「突然、閉館することもありますので、遠くからお越しになる場合は、開館しているかどうか、当日に電話でご確認してください。」と書いてあり、開館の朝10時を待って電話すると、応答はなし。電話を切ると、すぐにコールバックがあり、「今、電話しましたか?カースル・メンゲスですが。」と。なにやら、パーソナルタッチな対応に、温かさを感じながら、お尋ねすると、通常どうり開館しているとのこと。
ダンケルドから山中を走って、30分ほどで到着。門はなく、『アウトランダー』のラリーブロッホを大きくしたような武骨な四角い建物が、畑の向こうに、ポツンと見えます。到着すると、1階の受付横でツアー客向けにガイドさんが説明を始めていました。ツアー客以外の訪問者は私一人のようで、ツアー客から離れて、城内をゆっくりと静かに見学することができました。
スコットランドでは、氏族のことを、クランと呼び、今も多くのクランが強い結束力を誇ります。カースル・メンゲスは、「メンゲス」クランを象徴するカースルで、メンゲス・クランの慈善団体によって、管理運営されています。なお、Menziesは、一般には「メンジース」と発音されるが、クラン内、ハイランドでは「メンゲス」と発音するのよ、と受付の方がおしえてくれました。
今回は、現在に残るカースル・メンゲスを建設したロバート・メンゲスらをご紹介します。
Sir Robert Menzies( ? )、 ロバート・メンゲス卿
15世紀半ばにスコットランド王ジェイムズ一世(1406-1437)は、クラン・メンゲスの祖先、デイビッドにウィーム(Weem)の土地を与え、この地域を統括するアソル伯爵は、1453年にジョン・メンゲスをウィーム(Weem)の守護に任命しました。デイビッドが、ハイランドの地、テイ川とウィームの岸壁の間に、簡素な塔を建てたのが、カースル・メンゲスの原型です。
ジェイムズ四世(1473-1513)は、王領だったラノッホ(Rannoch)の地を、1502年にデイビットの曾孫、ロバート・メンゲスに与えました。ジェイムズ4世は、臣下に気前よく下賜し臣従を得ていたことで、知られます。(本サイト、ホリールード・ハウス宮殿、参照下さい)
下賜によるメンゲスの領地拡大に、ウィームの隣地の領主ニール・ステュワート(Neil Stewart, ?) は激怒し、5週間後にカースル・メンゲスを襲撃して焼き討ちし、ロバートを捉えて牢屋に入れてしまいます。ジェイムズ四世は、ニール・ステュワートのこの襲撃を「悪魔のような行為」だとして、激しく非難し、ロバートを解放させ、ロバートのもつ土地全てを、メンゲス男爵領として、公認しました。
1553年ロバートの息子、ロバートは、ニールによる襲撃の法的代償を、ステュワート家に要求します。メンゲスとステュアートは、話し合いの末、ロバートの息子ジェイムズ・メンゲス (James Menzies, ?) と第3代アソル伯爵(3rd Earl of Atholle, 1507-1542)の娘バーバラ(Barbara Stewart)が結婚することを前提に、和解の合意に達しました。
この結婚にあたり、ジェイムズ6世は、Weem近辺の土地や多くの家々をバーバラに与え、ロバートは、結婚により飛躍的に領地を拡げ、資産を増やします。バーバラとの結婚で資金を得たロバートは、質素な塔にすぎなかったカースル・メンゲスを今に残る4階建てのカースルへと大増築を行い、1577年に完成させたのです。
1577年の大増築により、カースル・メンゲスは、圧倒的な存在感をもつようになりました。
増築により立派になったカースル・メンゲスは、クランの人々に威厳を示すことができるようになり、またクランの人々はカースル・メンゲスの存在により、クランへの高い誇りが可視化され、その結束力は、より高まりました。
また、増築されたカースルには、クランが集まり、集会や裁判を行う公的なホール、キッチンや貯蔵庫などの召使が使う部屋、家族が使うプライベートな空間が区切られ、家族用の階段も設けられたことで、より快適な生活が可能になりました。



カースル・メンゲスは、外側に城壁がなく、防御が弱いように見えますが、1階には銃眼があり、4階の各方角には、カースル内から外敵を銃撃できる小塔がつけられています。カースル・メンゲスは背後に丘があるために、大砲で攻められることは無いと想定され、大砲から防御するための外壁は作られなかったのことです。しかし、大砲で攻められることは無いにせよ、他クランとの小競り合いは、日常茶飯事で、他クランが攻めてきた時に、カースルから効率よく相手を攻撃できる造りには、なっています。


メンゲス・クランは、男子の相続人によって、継承されてきています。19世紀初頭のクランの長、第3代準男爵ロバートには男子がおらず、遠縁の若者ロバートが、カースル・メンゲスを引き継ぐことになりました。
第3代準男爵ロバートは、ビジネスに失敗し多額の負債を抱えたため、メンゲスの土地の一部を売却しましたが、それでも負債が残ったまま他界しました。しかし、伝統的な措置で、数ヶ月に渡る法的手続きの末に、若者ロバートは負債を免除されました。
若く、希望に溢れるロバートはクランの長就任を祝う盛大な舞踏会を、カースル・メンゲスで開催します。多くの花火が打ち上げられ、華やかなドレスにメンゲスの赤と白のタータンのサシェを纏った女性たち、メンゲスの正装に身を包んだ男性たちが集い、賑やかな舞踏会が始まりました。
盛大な舞踏会が続く中、カースル・メンゲスの扉をノックする音を、召使が聞きつけます。扉を開けると、雨風に打たれたあとのひどい姿に、疲れ果てた顔の若者が立っています。カースル・メンゲスで長く働く召使は、どこかで見覚えのある顔だと思うも、はっきり思い出せません。
訪れた若者は、礼儀正しく、「このカードを主人に渡してくれ」と召使に頼みます。
召使は頼まれるまま、ロバートにカードを渡すと、ロバートの顔はみるみる灰色になり、立っていることができなくなり、階段の手すりをつかんで、崩れ落ちました。
亡くなった準男爵ロバートの従兄弟ジョンは、西インド諸島に行き、ビジネスに成功していましたが、スコットランドに帰ってくることはありませんでした。しかしカースル・メンゲスの執事と手紙のやりとりは、ずっと続けていました。ジョンは、近年亡くなりましたが、手紙のやりとりは、息子のジョンが続けており、クラン長ロバートが亡くなったことを知り、はるばるスコットランドまで、やってきたのでした。
父からクランの騎士道教育を、受けて育ったジョンは、自分はクランを率いる立場にあるのではないかという、強い責任感から、はるばるやってきたのです。しかし、ロバートがすでにクラン長就任の祝賀会を開いていることを知り、ジョンは、
「クラン長は君がこのまま務めればよい、私はこなかったこと、いなかったことにしてくれ、明日になったら帰るから、このまま祝賀会を続けてほしい」と穏やかにロバートに話しました。ロバートは、ジョンの意向を承諾し、早朝まで舞踏会を続け、何事もなかったように、客たちを送り出しました。
しかし、舞踏会の最中、ジョンと妻は、私物をまとめ、客たちを送り出すやいなや自分たちも、カースル・メンゲスから姿を消し、召使たちにはジョンがクラン長になることを伝えました。
その後、ジョンはクラン長となり、カースル・メンゲスに住み、カースル・メンゲスは、次の世代へ引き継がれていきました。
カースル・メンゲスのウォールド・ガーデンは、カースルの背後の丘の中腹にあります。大きな鉄の門を開けて、ガーデンに入るとザーッと激しい通り雨がきて、あわてて傘をさし、レインコートを着ているうちに、雨雲は去っていき、青空が広がったのが、良い思い出です。ウォールド・ガーデンから眺めるカースル・メンゲスの姿は、孤高ですが、どこか温かみが感じられる姿でもあります。
カースル・メンゲスは、メンゲス・クランによって管理運営されていて、修復もできる範囲で、できるところから、といった感じで無理のないペースですすめられているようです。

受付の方に、「クラン・メンゲスの方ですか?」とうかがうと、母方の祖母が、メンゲスだったということでした。自分は、メンゲスではない人と結婚したから、メンゲスではない、といっていました。男系継承に、限られるそうです。
クラン・メンゲスの末裔は、世界中に拡がっているようです。私が帰るころに、おそらくアメリカ人の6人ほどのグループが来ていました。もしかして、メンゲスの末裔かな?
受付の方が、前に働いていたカースルが近くにあると教えてくれました。しかし、アメリカの会社が買って、今は、ホテルに改築中だということですが、とても美しいカースルだから、ぜひ行ってみて、外観だけは見られるんじゃないかしら、と言われ、訪れたところ、「工事中だからダメ」と言われ、残念ながらその姿を見ることはできませんでした。
カースル・メンゲスで、クランの皆さんが集まってリール(スコットランドのフォークダンス)を踊っているところを、見たいなあ。。。


参考 :
Castle Menzies A History and Description, Menzies Charitable Trust, 2018.
Menzies The origins of the Clan Menzies and their place in History, Lang Syene, 2022.
