Brancepeth Castle ブランセプス・カースル:<前編>ロバート・カー、絶頂の象徴
ヒストリックハウス名:ブランセプス・カースル
所在地域:ダーラム
訪問:2023年7月4日

予約したツアーの開始時間より30分ほど早く門に到着したので、待っていると
中年男性二人と、杖をついた高齢の男性一人の三人が、やってきて、私と同じようにツアー開始を待っていました。

あとで判ったのですが、ブランセプスは第二次世界大戦中、軍の施設となっていて、高齢男性は兵士として、ブランセプスに滞在していたそうです。中年男性は元兵士の方の息子とその友人でした。高齢男性の方は、当時のことをよく覚えていて、ツアー中、ガイド(現在のブランセプスの当主)から質問を受けると、詳しく回答していました。
ブランセプスは、歴史を見ると、バルマー、ネビル、カー、王室、ミドルトン、ニコラス、ベリーズ、ラッセル…と、王室の没収を含めて、所有者が、頻繁に変わったカースルです。現在は、ドブソンファミリーが所有して、ツアーはカースルに家族と住むドブソンさんの案内で行われました。

出版業を営んだドブソンさんの両親が、書籍の倉庫として、カースルを購入したものの、父親は入居前に亡くなり、母親、マーガレットがカースルの改修、運営を行ったとのことです。
カースルの中庭では、ドブソンさんの小学生くらいの子供が、お友達と遊んでいました。広いカースルを2時間ほど、ドブソンさんの説明を聞きながら見学。家族と共に、現在このカースルで暮らすドブソンさんのお話は、歴史的な内容から、改修の苦労の詳細にまで及び、とても興味深いものでした。

ブランセプスの歴史は、1104年頃から900年以上に及びます。前編では、16世紀のブランセプスの当主、ロバート・カーを中心に書きます。
Robert Carr (1587- 1645), Earl of Somerset
1104年にダーラムの修道僧レジナルドが、「要塞化した邸宅、ブランセプス」と書いたのが、ブランセプスの歴史上の最初の記録です。
ブランセプスは、1138年、ステファンとマチルダの王位争いの国内戦争が行われた時に、当主であったバートラム( Bertram de Bulmer)が、防御を強化しました。ステファンが、臣下たちに、戦争のために邸宅を要塞化することを、特例として許可したためです。ブランセプスの城壁でつながる4つの塔は、この時期に建てられたようです。

1176年に、ブランセプスを継承したバートラムの孫娘エマの2番目の夫が、ジョフリー・ネヴィル(Geoffery de Nevill of Horncastle)であったことから、ブランセプスは、ネヴィル家の城となります。

1378年にネヴィル家が、ラビー・カースルを建設するまで、ブランセプスはネヴィル家の本拠地でした。ネヴィル家は、その家系からベッドフォード公爵、モンタキュート侯爵、ノーザンバーランド伯爵などの15人の伯爵、2人の主教を輩出し、中世では、名門中の名門の家柄でした。
しかし、第6代ウェストモーランド伯爵、チャールズ・ネヴィルは、イングランドで幽閉されていたメアリー・オブ・スコッツの脱出をブランセプスのバロンズ・ホールで、計画し、失敗。

エリザベス1世は、ネヴィル家の全ての領地を没収し、ブランセプスも王家の所有となりました。
時代は移り、ジェイムズ1世がイングランド国王となります。ロバート・カー(以下カー)は、友人トマス・オーバーベリー(Sir Thomas Overbury, 1581-1613)の紹介で、宮廷に出入りするようになり、ジェイムズ1世の寵臣となりました。
カーは、1611年にはローチェスター子爵(Viscount Rochester )に叙爵され、枢密院のメンバーに任命されました。
1613年は、カーのキャリアの転換期でした。
ジェイムズ1世は、11月にカーをサマセット伯爵(Earl of Somerset)、ブランセプス男爵( Baron Carr of Brancepth) に叙爵し、カーにブランセプスを与えました。そして、カーは12月、有力貴族の娘フランシス・ハワード(1590-1632)と結婚。
しかし、この結婚は、複雑なものでした。フランシスがカーに出会ったとき、フランシスは、ロバート・デバリュー(Robert Devereux, 3rd Earl of Essex, 1591-1646)とすでに結婚していました。フランシスの親の意向による政略結婚でした。
結婚した当時、フランシスは14歳、デバリューは13歳であったため、結婚は文書上でのみ行われ、二人が実際の夫婦として暮らすことはありませんでした。
フランシスは、デバリューを嫌い、宮廷で会ったカーに好意を抱きました。
フランシスとデバリューが結婚した時から状況が変わり、宮廷で権力をもつようになったカーとフランシスの結婚に、フランシスの親を始めとしたハワード一族は「何がなんでも実現!」と、力をいれます。しかし、カーの友人、オーバーベリーは、ハワード一族を信用しておらず、カーにフランシスとの結婚を思いとどまるよう、説得を続けていました。
そうこうするうちに、オーバーベリーは、ロンドン塔に幽閉され、1613年9月に死亡してしまったのです。ハワード一族から圧力を受けたジェイムズ1世は、フランシスの結婚の無効を認め、カーとフランシスは、結婚します。
二人の結婚は、オーバーベリーが死亡した3ヶ月後でした。
結婚後、カーとフランシスは、オーバーベリーの殺人に関わっていたことが疑われ、1616年にはロンドン塔に収監され、裁判にかけられます。
1617年には、ジェイムズ1世は、カーからブランセプスを没収し、ブランセプスは、プリンス・オブ・ウェールズであるチャールズ(後のチャールズ1世)に与えられました。
カーが、ブランセプスの当主であったのは、わずか4年だったのでした。
歴史的有力貴族ネヴィル家の本拠地であったブランセプスを、王がカーに与えたことには、二つの意味があったことでしょう。
一つ目は、ネヴィルの本拠地であったブランセプスを与えられるような、王が認める「権力者」であることの周囲への表明。
二つ目には、権力者になっても王を裏切れば、ネビィルのように即「没落」となることをカーに念押しし続けること。
この大きな城を見るたびに、カーはネヴィルの「栄華と没落」を思い出さずには、いられなかったことでしょう。
カーとフランシスの殺人への関与は、謎に包まれたままですが、カーは一貫して無実を主張しました。裁判では、二人に有罪が言い渡され、死刑を前提にロンドン塔に収監され続けましたが、1622年に王の恩赦で釈放されました。
カー、フランシス、オバーベリーの結婚、殺人事件は、当時の大きなスキャンダルでしたが、後年でも文学や演劇の素材となっています。
Richard Savage, Sir Thomas Overbury (1723), Rafael Sabatini, The King’s Minion(1930)、Jean Plaidy, Murder in the Tower (1964) など、多くの作品が書かれています。

カーは、ジェイムズ1世に気に入られて引き上げられ、フランシスに一目惚れされて結婚しようとし、オーバーベリーに結婚を引き留められて迷う。自分の意志よりも、人の意志で、人生の選択をしていました。オーバーベリーの死にカー自身が関与していなかったとしても、フランシスと結婚することの、危うさを考える意志をもてなかった。その意志の欠如が、カーがブランセプスに長く住めなかった、そして子孫にブランセプスを残すことができなかった、たった一つの原因といえるでしょう。
参考: A brief history of BRANCEPTH CASTLE and its owners, Brancepth Archive & History Group, 2016.
