ヒストリックハウス名:ブリックリング ホール

所在地域:ノーフォーク

訪問:2023年7月11日

ブリックリング・ホール(以下ブリックリング)は、アングロサクソン人最後のイングランド王ハロルド2世 (Harold II, 1022-66 )の邸宅でした。しかし、1066年にハロルド2世がウィリアム征服王 (William the Conqueror, d. 1087)に敗れると、ブリックリングはノリッジの司教のサマーハウスになりました。その後、エドワード3世の重臣、ダグワース(Sir Nicholas Dagworth, d. 1402)の、15世紀初めまでにはジョン・ファストルフ(Sir John Fastolf, 1380-1459)の邸宅となりました。

ファストルフは、シェイクスピアの作品『フォルスタッフ』の発想元になったとされる人物です。ファストルフは、1452年にブリックリングをジェフリー・ブリーン(Geoffrey Boleyn)に売却。以後ブリックリングはブリーン家の邸宅になります。

ジェフリーのひ孫の1人は、ヘンリー8世の2番目の妻、アン・ブリーン(Anne Boleyn, 1501or 1507-1536)です。ケントのヒーバー・カースル(Hever Castle, 本サイト参照)がアンの実家としてよく知られますが、ブリックリングもブリーン家の邸宅の一つで、アンはブリックリングで誕生したようです。

その後、ブリックリングは、ヘンリー・ハバト(Sir Henry Hobart、d. 1625, 以下ヘンリー) へ売却されました。ヘンリーは1611年にジェイムズ1世から準男爵位を得て、1613年には 主席裁判官(Lord Chief Justice of the Common Pleas)に任命されました。

順調に出世の道を進むヘンリーは1605年からブリックリング領地の購入を徐々に始め、1616年には全ての領地の購入を終えます。そして14世紀にダグワースが建てた濠に囲まれた中世の館を、最後に購入し、大改築を開始したのです。

大改築にあたり、ヘンリーが選んだ建築家は、ロバート・リミンゲ (Robert Lyminge, 1607-1628)です。リミンゲは、エリザベス1世、ジェイムズ1世の筆頭廷臣であったロバート・セシル (Robert Cecil, 1st Earl of Salisbury, 1563-1612) の主邸宅ハットフィールド・ハウス(Hatfield House, 1611、本サイト参照)の新築を手がけた実績がありました。

ハットフィールド・ハウスとブリックリングは、共にジャコビアン様式のカントリーハウスの典型とされ、外観、内装の両方で、共通する点が多くあります。例えば、外観では玉ねぎのような屋根の形、フランドル地方の特徴である曲線を取り入れた交差切妻屋根など。内装では片持ち造りの大階段、石膏飾りのある天井、大理石に囲まれた暖炉などです。

改築につかう建材は、イギリス全土から調達されました。ラットランド、ケルトンの石灰岩、ドーセット、パーベックの舗装用石材、ニューカースルのガラスなど。ヘンリーはブリックリング領地を5,500ポンドで購入しましたが、改築費用にはその2倍の費用をかけました。

ブリックリングを購入したヘンリー・ハバト、肖像画の手がちょっと不思議な感じ

62歳で邸宅の改築を始めたヘンリーは、ハウスの完成前に死亡しますが、ヘンリーは、今に残るブリックリングの原型を造りました。

ブリックリングはその後、売却されることなく、ヘンリーの子孫に継承されていきます。今回はその子孫の中で、当主ではなかったけれども、今のブリックリングを優美な姿にするのに大きな役割を果たしたヘンリエッタについて書きます。

中世からある濠、今は水は抜かれている
正面入り口の石像、入り口上の紋章は、ヘンリーの時代から残る

Henrietta Howard, Countess of Suffolk, (1688-1767)、ヘンリエッタ・ハワード、サフォーク伯爵夫人

ヘンリーのひ孫で、ブリックリングの当主であった第4代準男爵ヘンリー・ハバト(Sir Henry Hobart, 4th Baronet, d. 1698, 以下ひ孫ヘンリー)は、何かと問題を起こしがちな人物でしたが、自分に対する不名誉な噂を流されたことに激怒して決闘を申し込み、その決闘で負った傷がもとで、決闘の翌日に死亡してしまいました。

West Turret bedroom、ひ孫ヘンリーはこの部屋で亡くなった。素晴らしい刺繍がされたタペストリーとベッドカバーは、屋根裏で発見され、修復された
West Turret bedroomの天井の漆喰細工。こんな美しい模様を眺めながら眠りたい。

残されたひ孫ヘンリーの4人の子供のうち、最年長だったのが、今回の主役ヘンリエッタ・ハワード、後のサフォーク伯爵夫人です。父が死んだとき、ヘンリエッタは10歳でした。

1706年、18歳のヘンリエッタは、サフォーク伯爵家の末子であるチャールズ・ハワード(Charles Howard, 9th Earl of Suffolk, 1685-1733)と結婚、息子ヘンリーに恵まれます。しかし、チャールズは今でいうDV夫で、家計は貧しく、その結婚は不幸なものでした。

ヘンリエッタとチャールズは、1714年からセント・ジェイムズ・パレスで皇太子夫妻に仕えます。皇太子は、のちのジョージ2世 (George II, 1683-1760、以下ジョージ)です。チャールズはジョージの寝室付き官吏、ヘンリエッタは、皇太子妃キャロライン・オブ・アーンズバック(Caroline of Ansbach, 1683-1737)の寝室付き女官でした。

2人の仲が改善することはなく、ヘンリエッタとチャールズは1717年には別居状態になります。

皇太子ジョージと皇太子妃キャロラインの間を行き来するうちに、ヘンリエッタはジョージと親しくなり、1718年からジョージの愛人になったのでした。1727年にジョージが国王に即位しても、その愛人関係は変わることなく、1734年まで16年間続きました。複数の愛人と継続的な関係をもっていたチャールズ2世 (Charles II, 1630-1685)とは違い、ジョージ2世の場合、愛人といえば、ヘンリエッタという期間が長かったようです。

宮廷で国王の愛人として存在感を増していくヘンリエッタ。そのヘンリエッタの5歳年少の弟、ジョン・ハバト( John Hovart, 1st Earl of Buckinghamshire, 1693-1756、以下弟ジョン)は、決闘で父が死亡した後、家督を5歳で継いでいました。

ヘンリエッタの恩恵か、弟ジョンは1725年にはバース騎士団の騎士に、1727年には財務大臣 (Treasurer of the Chamber )に、ジョージ2世の即位に伴い、1728年にはブリックリング男爵に、1745年には枢密院のメンバーにと順調に昇進を遂げ、そして1746年にはバッキンガムシャー伯爵に叙爵されます。

メンテナンス中のロング・ギャラリー、弟ジョンは、友人の遺品である本をロング・ギャラリーに書棚を設置して収納。ロング・ギャラリーは、ライブライリーを兼ねることになった
ロング・ギャラリーの天井の漆喰細工と壁の描かれた南国の絵が、書棚と合っている

ヘンリエッタは、ジョージ2世から与えられた、トゥイッケナムにある新古典主義様式で建築されたマーブル・ヒル(Marble Hill )に居住していました。マーブル・ヒルには、アレクサンダー・ポープ(Alexander Pope, 1688-1744)、ジョナサン・スウィフト(Jonathan Swift, 1667-1745)、そしてホレス・ウォルポール(Horace Walpole, 4th Earl of Orford, 1717-97) といった文化人が集うサロンになっていました。

そして、マーブル・ヒルを頻繁に訪れ、滞在したのが、弟ジョンの息子ジョン・ハバト(John Hobart, 2nd Earl of Bukinghamshire, 1723-93, 以下甥ジョン)です。

4歳の時に、母を亡くした甥ジョンは、頻繁に叔母を訪れました。別居により息子ヘンリーと離れて暮らさざるおえなかったヘンリエッタにとって、甥ジョンは我が息子のような存在だったことでしょう。甥ジョンは、ヘンリエッタの影響を自然に受けながら成長します。

弟ジョンは63歳で亡くなり、甥ジョンは33歳でブリックリングの当主となります。ヘンリエッタの影響か、社交性が評価されたジョンは、39歳でロシア駐在大使となり、エカチェリーナ2世(Catherine the Great, 1729-96 )が君臨するロシア宮廷に赴きました。

3年のロシア駐在を終え、1765年にブリックリングに戻った甥ジョンは、ブリックリングの改築を始めます。改築中、甥ジョンは、ヘンリエッタと改築について多くの書簡を交わしていますが、中にはこんな手紙が。

「レディ・バッキンガムシャー(甥ジョンの最初の妻)とレディ・ドロシー(甥ジョンの妹)が、食事をする部屋の古い暖炉を残すべきと、主張していますが、彼女たちの意見に私が惑わされることはありません。しかし、彼女たちを沈黙させるのには、あなたの権威が必要です。」

40歳を超えた甥ジョン、妻と妹にいろいろ言われて困るときには、伯母ヘンリエッタに頼っていたようです。

甥ジョンは、トマス・アイボリー(Thomas Ivory, 1709-1779)とトマスの息子ウィリアム(d. 1837)を建築家に選び、ジャコビアン時代の建築を象徴するフランドル風の切妻屋根などは残しながらも、窓とペディメントを左右対称にするなどして、ジャコビアンと復古古典主義様式を融合させます。

ヘンリエッタの邸宅であったマーブル・ヒルは、復古古典主義様式で建築され、左右対称が際立つ館です。

18世紀中頃は、邸宅の復古古典主義様式への改築がよく見られた時期ではありますが、甥ジョンの改築には、ヘンリエッタの影響もあったことでしょう。

内部では、エントランスから2階のグレート・ホールにつながる大階段を新たに設置。エントランスホールを入って正面の大階段を上がった踊り場の左右に、高さ2メートルほどのアルコーブを造り、東アルコーブには、アン・ブリーン、西アルコーブにはエリザベス1世の等身大の彫像が置かれました。エントランス・ホールに入った人は、自然に二つの彫像を目ることになり、この邸宅の王家との関係を知ることになるのです。

エントランス・ホールの大階段
アン・ブリーンの彫像

甥ジョンの内装へのこだわりは、とりわけピョートル大帝の間(Peter the Great Room)に見ることができます。甥ジョンのロシアへの郷愁が感じられるピョートル大帝の間には、ピョートル大帝が戦場で騎乗する姿が織り込まれた壁全面を覆うタペストリーが架けられ、別の壁にはジョンと2番目の妻キャロラインのゲインズバラによる肖像画が架かっています。床にはアクスミンスターの特注カーペット。漆喰細工がされた天井の4隅と、特注の椅子はスモーキーピンクでコーディネートされ、暖炉は大理石と金で装飾されています。部屋全体が、金とスモーキーピンク、白でコーディネートされています。

ピョートル大帝の間
ピンクの壁と椅子は、同じ生地が張られている

ヘンリエッタの肖像画を見ると、ヘンリエッタはピンクと白のドレス、帽子、靴で優美なコーディネート。同時代の女性の肖像画で見るドレスとは異なり、裾と袖が少し短く、ドレスは、横の線と縦の線を際立たせるデザインです。帽子、靴のデザインもピンクと白の切り替えを際立たせるデザインで、その切り替えが目を引きます。ヘンリエッタの美意識が伝わってきます。

ヘンリエッタの肖像画

ピョートル大帝の間と、ヘンリエッタのドレス姿は、どことなく似ているという印象を、私は持ちます。どちらもピンクと白のデリケートな切り替えが、優美さを演出し、その優美をいつまでも見ていたいような気持ちに。

ピョートル大帝の間の内装には、ヘンリエッタが相当に関与していたのではないか、と想像します。

甥ジョンは、ロシアに駐在する際に、イギリス王室から王家の紋章がはいったステート・ベッドを与えられ、ロシア駐在中は、このベッドで眠っていました。このベッドを置くための部屋をジョンは建築し、部屋の中央付近に円柱を配置しました。

ステート・ベッドルーム、タペストリー、ベッドカバーには、イギリス王室の紋章の刺繍がされている

円柱から向こうのベッドがおかれた領域は、聖域であることを表現しているそうです。これらの円柱は、ブリックリングの復古古典主義色をより強め、ここにもヘンリエッタの影響をみることができると言えるでしょう。

甥ジョンは、広大な領地に、鹿の猟を行う鹿苑(Deer Park)、競馬場も新設しました。

鹿猟と競馬は、代表的な王族のスポーツで、甥ジョンが王室メンバーと親交があったことを示しています。

国王ジョージ2世の愛人となったヘンリエッタは、弟ジョンと、甥ジョンの宮廷でのキャリアに恩恵をもたらしました。また、ヘンリエッタは、甥ジョンを通して、実家ブリックリングの建築にも、相当に影響を与えたことがわかります。

ヘンリエッタは、ジョージ2世が亡くなった7年後、79歳で死去。その時、甥ジョンは44歳でした。甥ジョンは40年以上、ヘンリエッタの影響を受け続け、ブリックリングは優美な姿に生まれ変わったという見方もできます。

甥ジョンが70歳で亡くなると、甥ジョンの息子たちは夭逝し、長女と甥ジョンは折り合いが良くなかったため、次女キャロライン・ハバト(Caroline Hobart, Lady Suffield, 1767-1850) がブリックリングを継承しました。

キャロラインには子供が無く、キャロラインの夫ウィリアム(William Assetton Harbord)が亡くなると、女性が当主となることが認められないために、甥ジョンの長女の息子であるジョン・カー(John Kerr, 7th Marquess of Lothiam, 1794-1841、以下カー)がブリックリングの継承者となりました。

制度上、カーは当主となりましたが、実際はキャロラインが、ブリックリングに住み続け、庭園などを改良。カーは、キャロラインより9年早く死亡し、ブリックリングに住むことはありませんでした。

キャロラインの死後は、カーの息子ウィリアム・カー(William Schomberg Robert Kerr, 8th Marquess of Lothiam, 1832-1870)が妻コンスタンス (Constance, d. 1901)と共にブリックリングに住みました。ウィリアムは38歳で死亡、その後未亡人コンスタンスは30年間ブリックリングに住み続けました。

コンスタンスが亡くなってから、30年の間、ブリックリングは借家になっていましたが、1930年に第11代ロージアン侯爵となったフィリップ・カー(Phlip Kerr, 11th Marquess of Lothian, 1882-1940)は米国を主居住地としながらも、ブリックリングをイギリスにおける主宅とし、彼の死後、ブリックリングと2,025ヘクタールの領地をナショナル・トラストに寄贈しました。

フィリップは、邸宅のナショナル・トラストへの寄贈を法制化した1937年ナショナル・トラスト法の推進者で、ブリックリングはトラストへ寄贈される最初の大邸宅となりました。

現在の姿にブリックリングを改築したのは、甥ジョンで、キャロラインはブルックリングに50年以上住み、コンスタンスは30年住みました。しかし、ジャコビアンと復古古典主義の特徴である左右対称が融合するブリックリングの姿、優美なピョートル大帝の間や、大規模な鹿苑の名残などを見ると、住んだ期間はずっと短いけれど、現在のブリックリングの姿に影響した一番の人物は、もしかしたら… ヘンリエッタかもしれないなあ、と私は、思うのです。

訪れた時、ブリックリングには、ハウスがオープンする前に到着したので、まず庭園を散策しました。甥ジョンが植林して造った広大な森と鹿苑の跡地、キャロラインとコンスタンスが開発した美しい整形庭園をノーフォークの涼しい空気の中、そぞろ歩くのは、とても気持ちがよかったです。

ハウスの東に広がる整形庭園

時間になり、ハウスに入ると、そこにはアン・ブリーンとエリザベス1世の彫像が

「そびえている」ように置かれていました。インパクトを持たせたかった甥ジョンの意気込みが伝わってきました。

サウス・ドローイング・ルーム(南の居間)、キャンドルの光で見ると、天井の漆喰細工はより幻想的に美しかったのでは
サウス・ドローイング・ルーム、暖炉周りにも、復古古典主義様式の特徴である、円柱が2階建てに配置されている。

ヘンリエッタは、自身が居住したマーブル・ヒルよりも、生まれ育ったブリックリングに、思い入れがあったかもしれません。甥ジョンとヘンリエッタが、ブリックリングの改築の詳細を相談する声が、館の中から聞こえてくるようでした。

窓際で、2人が相談したこともあったかもしれません
曲線を描くフランドル風切妻屋根と、縦分割の窓

参考 : Blickling Estate, National Trust, 2015.