ヒストリックハウス名:ドニントン・カースル

所在地域:ニューベリー

訪問:2024年6月20日

ニューベリーは、王党派の拠点オックスフォードと主要港であるサザンプトンをつなぐ途中、そしてロンドンから商業が盛んだったバースへ向かうルートの半ばに位置します。交通の要衝であるニューベリーは、清教徒革命の主戦場の一つとなり、ドニントンは、ニューベリーの近くに位置します。

ドニントンを訪れたのは、気持ちよく晴れた夏の朝。ここで激しい戦いがあったとは… 想像し難い… 静かな丘でした。

丘のふもとに車を停め、小さなゲートを開けて、ドニントン・カースル(以下、ドニントン)へと坂道を登ります。急斜面の上にあるドニントン。甲冑で武装した騎兵を乗せた馬が登るのは、大変そうです。雑草が茂る急な斜面を登りながら、ドニントンを要塞にしたチャールズ1世(Charles I, 1600-1649) の思惑を想像します。

急な斜面を四方に持つ丘の上に建つドニントン

John Boys (1607-64)、国王軍大佐、ジョン・ボーイズ

清教徒革命における国王軍と議会軍の本格的な戦いは、1642年10月末のウォリック南方エッジヒルの戦いが最初とされます。オックスフォードを本拠地とした国王軍は西部、北部を抑えようとし、議会軍は東部、南部、ヨークシャー、ランカシャー方面に勢力を拡げることを目論んでいました。

1643年9月、チャールズ1世の甥、ルパート王子(Prince Rupert of the Rhine, 1619-1682 ) が率いる国王軍は、グロスターを征服後、レディングへ進軍する議会軍をニューベリーで阻止します。議会軍、国王軍共に兵力は15,000。国王軍は訓練された兵から成り、質では優っていたとされますが、弾薬の到着待ちの状況にありました。ルパート王子は弾薬到着後の攻撃開始を望みましたが、チャールズ1世は弾薬の到着を待たず、一刻も早く攻撃を開始することを命じました。

ケネット川とエンボーン川の間に軍を進めた両軍の戦いは、9月20日の朝7時、議会軍の砲撃で始まりました。国王軍は途中で弾薬がつき、騎兵達を中心として攻めますが、大砲の攻撃にはかなわず、劣勢に追い込まれました。20日夜間、国王軍はニューベリーから密かに撤退し、チャールズは覆面をして逃走しました。翌朝、国王軍が撤退したことに気付かなかった議会軍は、しばらく大砲を撃ち続けましたが、国王の撤退を知った議会軍はレディングへ進軍しました。

チャールズは、ニューベリーからオックスフォードに撤退する際に、小高い丘に位置するドニントン・カースルの地の利を知ります。ドニントンは、議会派寄りのジョン・パーカーが所有していましたが、チャールズは、パーカーからドニントンを接収して国王領地とし、ドニントンを要塞としました。

そして、今回の主役であるジョン・ボーイズに、ドニントンを任せました。

大陸での戦闘経験があるボーイズは、アイルランドでは、リバーズ伯の200人の歩兵、25騎兵、4基の大砲からなる連隊を率いて戦った実績がありました。ボーイズはアイルランドからリバーズ伯連隊を率いて国王軍に参加していました。リバーズ伯連隊は、リバーズ伯自身によって指揮されたことは無く、ボーイズが指揮をとってきた連隊でした。

ドニントンの要塞化を任されたボーイズは、自らの戦略でダイヤモンド型の土塁を築き、兵士と大砲の機敏な移動を可能にすることで、その防衛力を高めました。ダイヤモンド型土塁は、近代の要塞でよく見られる星形要塞の前身とされます。ボーイズが築いた土塁は、今も残ります。

軍事訓練を受け大陸での戦闘経験豊富な貴族の指揮官を多数もつ国王軍は、民兵中心の議会軍よりも当初は優勢でした。しかし、オリバー・クロムウェル (Oliver Cromwell, 1599-1658) が機敏さと規律を重視して訓練した騎兵連隊「鉄騎隊」の働きにより議会軍はにわかに勢力を強め、1644年7月2日、ヨーク西方、マーストン・ムーアの戦いでは、議会軍が国王軍を劣勢に追い込みました。

しかし、同年7月、ミドルトン将軍 (John, Middleton, 1st Earl of Middleton, 1608-1674)率いる議会軍がドニントンを攻撃しにやってきたとき、ボーイズの反撃準備は万全でした。「鉄騎隊」の活躍により勝利を確信する議会軍は、ボーイズに降伏を迫りますが、ボーイズは降伏を拒否し反撃。ボーイズらの反撃により、議会軍は100人超の犠牲者を出すことになりました。

タワーには多くの砲撃の跡が残る

9月にはホートン(Joremy Horton, 1603-1649 )率いる議会軍の砲兵隊がドニントンに到着し、ドニントンへの攻撃は激化します。ドニントンは、12日間に渡り1000発以上の砲弾の攻撃を受け、建物は損傷を受け続けましたが、ボーイズの軍は、騎兵が要塞へ登ってくることは阻止し、要塞は守られました。

議会軍が見たであろう風景、攻め入りたくても攻め入れない、左右の斜面では多くの兵士が戦死

要塞に攻め入ろうと丘を駆け上がる騎兵、歩兵は急斜面の途中でボーイズらに仕留められ続け、議会軍の犠牲者は増える一方でした。

同年10月に、チャールズ1世率いる国王軍は、ドニントンの包囲戦を終わらせるためにニューベリーにやってきます。チャールズは、ドニントンを守り抜いたボーイズの戦略と勇敢さを讃え、ボーイズを叙爵し大佐へ昇進させました。

建物の壁はグレートホールの一部、チャールズはこの辺りでボーイズと話したかもしれない

1644年10月、チャールズが率いる国王軍は、オックスフォードシャーのバンブリー・カースル、ハンプシャーのベージング・ハウス、ドニントンの包囲戦を終わらせるために進軍し、ニューベリーで二度目の戦いが行われました。二度目のニューベリーの戦いでは、ドニントンが国王派の拠点となりました。再び、戦いは議会側の優勢に終わり、国王軍は、またもやオックスフォードへ敗走しました。

クロムウェルの騎兵隊は、敗走する国王軍を追走するも追いつけず、南へ戻ってドニントンを攻撃します。しかし、ボーイズの徹底した反撃を受け、議会軍は多くの犠牲者を出しました。

1644年11月9日、国王軍はルパート王子とノーザンプトン伯 (James Compton, 3rd Earl of Northampton, 1622-1681)の軍の協力を得て、兵力15,000でドニントンへ進軍し、ドニントンは議会軍の包囲からやっと解放されました。

1645年11月、クロムウェルは、強固な要塞ドニントンの壊滅は必須として議会で決議。1646年春、議会軍をドニントンへ向かわせ、砲撃を行います。

議会軍は、「降伏しなければ、ドニントンは石一つ残さず崩れ落ちる」とボーイズを脅し、降伏を迫ります。しかし、ボーイズは「私の使命は、建物を守ることではない、神に命じられた土地を守ることだ」と、降伏をきっぱりと拒みました。

議会軍のドニントンへの砲撃は止むことなく、ボーイズも負傷します。

1646年3月30日、国王軍が劣勢となる中、チャールズはドニントンを訪れ、ボーイズに降伏を命じます。チャールズがサウスウェルでスコットランド軍と合流する直前のタイミングでした。

1646年4月1日、ボーイズ率いる軍は、旗をはためかせ、太鼓をならして行進し、ドニントンから撤退しました。そして撤退した軍隊は、国王軍の拠点であるウォーリングフォード ・カースル(Wallingford castle) へ向かい、軍務から退くことを決めたボーイズはロンドンへ向かいました。

ボーイズへの議会軍の敬意が示され、軍隊の尊厳が守られた撤退でした。

その後、議会はゲートハウスのみを残し、ドニントンを破壊することを決議します。

クロムウェルが唯一残した、ツインタワーがあるゲートタワー

ボーイズが撤退した後でも、クロムウェルはドニントンを破壊せずにいられなかったのです。陥落させられなかった無人の要塞へ、大砲を撃ち込む議会軍… 議会軍の要塞とすることもできたと思うのですが、自分たちを翻弄し続けたドニントンを、クロムウェルは二度と見たくなかったのかもしれません。

ドニントンは廃墟と化しました。

廃墟となったドニントンは、元の持ち主であるパーカーに返されました。パーカーは廃墟近くにあったコテージに住み、パーカーはドニントンの最後の住人となりました。

ドニントンは、1946年に国有となり、現在ではイングリッシュ・ヘリテージが管理しています。

クロムウェルはボーイズの勇敢な防衛が後世に伝わるように、あえてゲートハウスは残したのかもしれません

参考 : 

Walter Money, HIstory of Newbury, 1972, R. Neville Hadcock, The Story of Newbury, 1979, Sue Hopson, Newbury then and now, 1988, Cecillia Millson, The Story of Newbury, 1990, 

Susan Tolman, Newbury History and Guide, 1994, Tony Higgott, The Story of Newbury, 

David Peacock, The story of Newbury, 2011.