ヒストリックハウス名:ブロートン・カースル
所在地域:コッツウォルズ、バンブリー
訪問:2024年7月3日


オックスフォード北、コッツウォルズにあるブロートン・カースル(以下ブロートン)を訪れたのは、午後遅い時間でした。ゲートを抜け、ツイードのジャケットとネクタイを着用された初老の紳士に受付をしてもらい、カースルへ。こちらのカースルのスタッフの方々は、男性はジャケットを着てネクタイをし、女性はブラウスやワンピースなどのエレガントな服装だったことが印象的でした。


1300年頃にエドワード1世に仕える騎士、ジョン・ド・ブロートンが建築したブロートンは、1377年に財務大臣兼ウィンチェスター大司教であったウィリアム・ウィッカム(William Wykeham, 1320 or 1324-1404) により、購入されました。それ以来、ウィッカムの子孫が、現在に至るまで継承する館です。増改築されてはいますが、ハウスの大部分と堀は1300年から残るもので、その歴史は800年近くになります。
ブロートンでは、清教徒革命時代に、国の体制を変えようという秘密の話し合いが頻繁になされました。
William Fiennes, 8th Lord Saye & Sele, (1582-1662)、ウィリアム・フィネス、第8代セイ・アンド・シール男爵

ブロートンの当主、ウィリアム・フィネス(以下フィネス)は、エリザベス1世時代の末期に生まれ、成人した頃にジェイムズ1世の時代となり、人生の活躍期といえる43歳頃にチャールズ1世が即位、フィネスが67歳のときにチャールズ1世が処刑されます。そして、1660年の王政復古の2年後、フィネスは80歳で死亡しました。
王政反対、国王死刑、王政復古と展開した清教徒革命の時代です。
同時代の歴史家クラレンドンは、フィネスを「信頼がおける、野望をもった人物、議会の権威者である…」と評しました。
清教徒革命における国王軍と議会軍の本格的な戦いは、1642年10月末のエッジヒルの戦いが最初とされます。フィネスは、このエッジヒルの戦いが始まる13年前から、自宅ブロートン・カースルで、清教徒革命につながっていく話し合いを、密かに、頻繁に、行っていました。



フィネスの父、リチャード・フィネス(Richard Fiennes, 1557-1613) は、オックスフォードシャーの知事(Sheriff)を務め、1592年にエリザベス1世から騎士に叙爵されました。エリザベス1世とスコットランド王ジェイムズ1世のヨーロッパ大陸への使者も務めた枢密院のメンバーの1人でした。枢密院は、リチャードに16人の国教忌避者(recusants) の軟禁を任せたこともあり、リチャードが女王と枢密院の信頼を得ていたことを窺わせます。
フィネスは、幼い頃から父リチャードが、エリザベス1世に仕え、任務を果たす姿を見ていたことでしょう。
植民地開発の初期といえる1629年に、フィネスは、ロバート・リッチ (Robert Rich, 2nd Earl of Warwick, 1587-1658、以下ウォーリック)、ジョン・ピム (John Pym, 1583-1643)、ジョン・ハムデン (John Hampden, 1595-1643)らとプロヴィデンス島会社(Providence Island Company) を設立します。
カリブ海にあるプロヴィデンス島は、1929年に発見され、フィネス、ウォーリックらはこの島への投資と開発を行うことを決めます。同島への投資を目的とした会議が、同年11月10日に開かれプロヴィデンス島会社が設立されました。プロヴィデンス島会社が求めるメンバー1人の出資額は、当時のお金で200ポンドで、1631年初までに20人の出資者が集まりました。
プロヴィデンス島会社は、当初、タバコと綿のプランテーション経営で人口を増やし、植民地ではなく独自の共和国を樹立することを目指していました。
プロヴィデンス島会社では、カード、ゲーム、売春、飲酒、不敬は禁止され、秩序ある国家運営を目指していました。しかし、タバコと綿のプランテーション経営では、十分な利益が上がらず、砂糖キビに転向しました。
ピューリタンを北米へ移住させ、国内のピューリタンの動きを抑える目論見をもっていたチャールズ1世は、プロヴィデンス島会社に正式な設立許可を与え、1637年には、それまで私費でまかなっていた島の防衛にかかる軍事費を国費とすることに同意しました。これによりプロヴィデンス島会社への投資は活発化し、1637年には追加出資100,000ポンドが集まりました。
1638年3月には、ウォーリック、フィネスらはプロヴィデンス島への移住を準備しますが、チャールズ1世は彼らに移住許可を与えませんでした。そうこうしているうちに、1641年5月には、スペインとポルトガルがプロヴィデンス島を侵攻し、島は両国により占拠されてしまい、プロヴィデンス島会社への投資は水泡に帰しました。
ブロートンでは、1629年から、プロヴィデンス島会社への投資、運営に関わる会議が秘密で行われていました。
王が認めるプロヴィデンス島会社に関わる会議なら、秘密で行う必要はないはずです。しかし、この会議はプロヴィデンス島会社の運営のみならず、チャールズ1世の政治への不満を話し合う場となり、ひいては王権を制限する提案が話し合われる場になっていったのです。


ロンドンから距離があり、堀に囲まれた小規模な館であることから、スパイが入り込みにくいブロートンは、秘密の会議を開くのに適していたのです。
会議が行われたカウンセル・チェンバーには、王軍がブロートンに発した大砲の玉が展示されています。

フィネスらは、プロヴィデンス島運営が困難になったからチャールズ1世に反旗をあげたのか。それとも反旗をあげるために、プロヴィデンス島への投資をはじめたのか。。。
清教徒革命の最初の軍事衝突とされる1642年10月23日のエッジヒルの戦いでは、フィネスは連隊を率いて議会軍として戦いました。この戦いでは、ルパート王子率いる王軍が優勢でした。エッジヒルの戦い後、6つの大砲を装備した王軍に攻められたブロートンは陥落し、王軍に占拠されてしまいました。
王政のあり方の改革は求めたものの、王の処刑は望まなかったフィネスは、1649年のニューポートの契約で、チャールズ1世に議会派への譲歩を進言しますが、チャールズ1世はこれを拒否。この拒否は、議会派が王の処刑を断行するきっかけになったとされます。
チャールズ1世が処刑されると、フィネスはブリストル海峡のランディー島に蟄居し、すべての政治活動から身を引きました。王政復古の動きが始まった1660年、フィネスはブロートンに戻り、王政復古を支持し、1662年にブロートンで亡くなりました。
フィネスの後の時代、ブロートンは放置され荒れていた時代があったものの、1860年代に16代男爵フレデリックがジョージ・ギルバート・スコットに改築を依頼し、館は生き返りました。
フィネスの時代の建築を生かし、整えられた部屋は、それぞれ異なるインテリアのスタイルです。











参考 : Broughton Castle, Broughton Castle, 今井宏他、『世界歴史大系 イギリス史2 -近世-』、1990年、山川出版社.
