ヒストリックハウス名:チャビニッジ
所在地域:コッツウォルズ、テットベリー
訪問:2024年6月20日

正面玄関、こちらの玄関は通常はクローズ

コッツウォルズ、テットベリー近くにあるチャビニッジ。到着するまでに、ちょっと苦労がありました。

Googleマップが示すのは、道の入り口に「車が通るのは難しい」と表示された狭い道。その道の両側には、1メートルほど伸びた草がびっしりと生え、確かに車が通るのは厳しそう。しかし、進入禁止や歩行者専用道路の標識はないので、難しいけれど、車が入れないことはない。。。

チャビニッジへの訪問は事前予約のガイドツアーのみ可能で、アポ無しの訪問はできません。余裕をもって移動時間を見積もってはいましたが、指定の時間に到着するためには、あちこち迷って走る時間はありません。ツアーによる訪問のみOKの邸宅の場合、遅刻すると訪問そのものができなくなるところもあり、心は焦ります。

迷った末、時間最優先で、草に囲まれた道をエイと突き進みました。草ボウボウの道を抜けたあと、Googleに導かれるまま、いくつかの道を辿り、「チャビニッジ」と小さく書かれた板が架る場所に到着。

ところが、今度は駐車場への入り口がどこなのかが、はっきりしません。車や荷物が雑然と置かれた広場のようなスペース。どこから入るのかと見渡すと、隅のほうに車がやっと1台通れるほどの幅の門があるのを発見。

門の向こうに、車が数台見えたので、車が通れることは確信し、慎重に門を通り抜けると、どこからか女性がやってきて、「ツアーに参加するの?」と笑顔で聞いてくれ、やっと正しい場所へ来たのだと確信できました。案内された駐車場に車を停め、約束の時間5分前には、邸宅に入ることができました。

邸宅に入ると、訪問予約をする際にメールをやりとりしていたキャロラインが迎えてくれました。キャロラインは、チャベニッジに住む当主家族の1人です。周りを見渡すと、私の他には女性が1人。その女性はキャロラインの寄宿学校時代の友達ということで、2人の小学校時代の思い出話を聞かせてくれました。

どこからともなく、ツアーの案内役の初老男性が登場、男性はチャベニッジの住人ではないが、近くに住んでいて家族と交友があり、長年に渡りガイドを任されているとのことでした。

しばらくすると、ドイツ人のカップルが、「ギリギリになっちゃって、ごめんなさい」と言いながら入ってきました。ドイツ人女性は、カリン・クイントさんというジェーン・オーステン関連の書籍を書いている著者でした。オーステンの作品を原作にした映画やドラマのロケ地を解説した本を出版されたばかりということです。本をもって撮影に応じてくださいました。

カリンさん、出版されたばかりの著作と

チャベニッジは、ポルダーク(Poldark, 2015)、ウルフ・ホール(Wolf Hall, 2015)、テス(Tess of the d’Urbervilles, 2008) などの映画やドラマのロケ地です。カリンさんは、取材目的で来ているようでした。

ポルダークでは、チャビニッジはロスの自宅

ツアーに参加する団体メンバーが、なかなか現れないのですが、開始時間を10分以上過ぎたので、ガイドの方は説明を始めました。しばらくたったところで、20名ほどのシニアグループが到着。ツアーバスは、私と同じようにチャベニッジを見つけるのに苦労したとのこと。ようやく全員揃い、本格的にツアーが始まりました。暑い日で、シニアの方々は、すでにお疲れといった様子でした。

記録が残るチャベニッジの最も古い当主は、エドワード証聖王( Edward the Confessor, 1003-66)の姉妹である、ゴーダ王女( Princess Goda of Wessex, 1004-55) です。

ウィリアム征服王がイギリスを支配するようになると、チャベニッジにはアウグスティヌス派の修道院が建てられ、ホーズリー (Hoseley)の修道院が、管理していました。そしてヘンリー8世による教会破壊時にチャベニッジは王室に没収され、ヘンリー8世の義理の弟、トマス・シーモア (Thomas Seymour, 1508-1549) に与えられました。

1549年にシーモアが大逆罪で処刑されると、チャベニッジは再び王領となり、1553年に、近隣の大地主で国家議員のウォルター・デニス(Walter Denys of Dyrham, 1501-1571)に与えられました。そして約10年後の1564年にデニスの息子リチャードは、チャベニッジをエドワード・ステファン(Edward Stephens of Eastington, 1523-1587、以下エドワード)へ売却しました。

エドワードは、朽ちかけた小さな修道院だったチェベニッジを1576年頃までに改築し、新しい二つの棟と玄関ポーチを増築、グレートホールには修道院時代のステンドグラスを取り付けました。

グレートホール、修道院のステンドグラスをパッチワークのようにしてリサイクル
グレートホール、余った修道院のステンドグラスを、はめ込んだ?
グレートホール、エリザベス時代は2階で音楽が演奏された、今はパイプオルガンが見えます
グレートホールは修道院時代からある建物にあり、壁の向こうの部屋はエリザベス時代に増築された棟

エドワードの死後、長男リチャードが承継し、1599年にリチャードが死亡すると、リチャードの長男、10歳のナサニエルがチャベニッジの当主となりました。

このナサニエルが、今回の主役です。

Nathaniel Stephens (1589-1660 )、ナサニエル・ステファンズ

ナサニエルが10歳でチャベニッジの当主となった頃は、エリザベス1世が君主、ナサニエルが大人になった頃にジェイムズ1世が国王になり、そしてナサニエルが30代後半の時に、チャールズ1世が即位すると、時代は議会派と王党派が対立する清教徒革命へと向かっていきました。

議会派のナサニエルは、自ら騎馬隊を編成して参戦。グロスターを包囲し、近隣の王党派の居城、ビバーストーン・カースル(Beverston Castle) を陥落させるなどして、名を上げます。

クロムウェル(Oliver Cromwell, 1599-1658) の義理の息子のアイルトン(Henry Ireton, 1611- 1651) は、ナサニエルとも姻戚で、チャベニッジを頻繁に訪問していました。

アイルトンの肖像画、剣は清教徒革命時代のもの、持たせていただくとずっしりと重く、私は片手では持てませんでした。
アイルトンの肖像画が置かれていた部屋。アイルトンが泊まった部屋といわれている。
清教徒革命時代のヘルメット、被せてもらいましたが、重すぎて被ると私は動けませんでした。
クロムウェルの肖像画も飾られている。

1648年12月、クロムウェルは、王軍の興盛を阻止するためには、王の処刑は避けられないという結論に至ります。ナサニエルは、議会におけるクロムウェルの法律顧問でした。クロムウェルが王を合法的に処刑するためには、ナサニエルが王の処刑を合法と認めることが必要でした。

クロムウェルは、側近アイルトンをチャベニッジに送り、ナサニエルから「王の死刑は合法」である確認をとるよう命じます。

アイルトンがチャベニッジに到着したとき、ナサニエルは、クリスマスの祝祭を始めようとしているところでした。ナサニエルは、王の処刑については一貫して懐疑的。しかし、クロムウェルに反対することは、自分だけでなく一家の危険につながる恐れがあります。アイルトンが到着すると、ナサニエルは終始、優柔不断な態度で対応し、ナサニエルが期待する「死刑は合法」の回答をうやむやにし、その話題を避け続けました。

アイルトンは、ナサニエルを徹夜で説得し、朝になってナサニエルはアイルトンに「無言の同意」を与えました。

アイルトン「王の処刑について、合法であることは明らかだ。そちは、合法であるということを、わざわざ認める必要がないから、是と言わない、ということと理解するがよいか、そちが反対であるならば、なにか言うことがあるであろう。」

ナサニエル「… 」

というやりとりを、想像します。

王の処刑への同意書のレプリカ
王の死刑の同意書の横には、チャールズ1世の頭髪(本物)が飾られている

その夜、チャベニッジから離れていたナサニエルの娘が帰宅し、ナサニエルとアイルトンの王の処刑への「無言の同意」の話をナサニエルから聞くと娘は畏れおののき、怒りを露わにしました。「国王の処刑に無言の同意を与えたお父様と我が一族に、私は呪いをかける」と震える声で、言いました。

娘の呪いの影響なのか… ナサニエルは、間も無く病で寝込み、二度と起き上がることはありませんでした。

年があけ、1649年1月30日にチャールズ1世は議会派により処刑されました。そして11年間、王不在、護国卿体制の時代を経て、1660年5月29日に王政復古で、チャールズ2世(Charles II, 1630-1685)が王位に就きました。

ナサニエルは、チャールズ2世が復位した翌日5月30日に、寝たきりのまま71歳で亡くなりました。

ナサニエルが寝込み、死亡したベッド。このベッドから立ち上がることはなかった。
ベッドの横に置かれたサイドテーブル、彫刻が緻密
ナサニエルのベッドの彫刻が目を惹く
ベッドの向いの暖炉。寝込んだナサニエルは、十字架に祈りを捧げたのか

ナサニエルの葬儀の準備が整うと、首が無い御者が御する霊柩馬車がどこからかやってきて、チャベニッジの門をくぐり、玄関ポーチに停まりました。首なしの御者の体型は、チャールズ1世そのものでした。霊柩馬車が止まった音がすると、ナサニエルは待っていたかのように、棺から立ち上がり御者に最敬礼をすると、自ら霊柩馬車に乗り込みました。ナサニエルが霊柩馬車の中に横たわると、首なし御者は、霊柩馬車を走らせ去っていきました。

首なしチャールズ1世は、この門を開けて入ってきた
首なしチャールズ1世が霊柩馬車を停めた車寄せ
死んだナサニエルは、この玄関ポーチから歩み出た
死者ナサニエルが開けた扉

そして、ナサニエルの子孫が絶えるまで、当主が亡くなると同じように首なしチャールズ1世が引く霊柩馬車が玄関に停まり、亡くなった当主を迎えにきて、当主は最敬礼をして霊柩車に乗り込むということが続きました。

ナサニエルの直系子孫が1793年に絶えた以降は、チャビニッジには遠縁の親類や司教が住みました。そしてチャビニッジは、1891年にジョージ・ウィリアム・ローズリーフール(George Williams Lowsley-Hoole, 1869-1937) へ売却され、以来、代々のロウズリー家の子孫がチャビニッジを承継しています。

Googleマップに導かれても、チャビニッジに辿りつくのが難しかったのは、チャールズ1世が私を迷わせたのかも… と思うと、チャールズ1世に親近感を覚えます。

ナサニエルは祖父エドワードが、大改築をしたチャベニッジの内装に手を加えました。オーク・ルームのパネリング(1627)、グレート・ホールの暖炉(1625-30) などで、今に残ります。

ナサニエルが設置した暖炉、ポルダークのロス人形が置かれている

参考 : ’Stephens, Nathaniel(1589-1660), of Eastington, Glos.’ , The History of Parliament, British Political, Social & Local History, http://www.historyofparliamentonline.org/volume/1604-1629/member/stephens-nathaniel-1589-1660 , Chavenage, An Elizabethan Jewel, set in The Cotswolds, Chavenage.