ヒストリックハウス名:チャーク
所在地域:北ウェールズ、レクサム
訪問:2024年6月28日

チャーク、エントランス、ガラスの窓は後世に造られた

2024年夏の旅では、北ウェールズを初めて訪れました。北ウェールズには、エドワード1世 (Edward I, 1239-1307) が築城した大規模要塞、コンウィ、カーナヴォン、ビューマリス、ハーレイが今に残ります。4つの要塞に共通するのは、圧倒的な規模であること。要塞は壁と塔から成りますが、塔部分はウィリアム征服王 (William I, 1027?-1087) の築城と比べ、どっしりと太い円柱なのが印象的です。織田信長は、天守閣を初めて作ったと読んだことがあります。エドワード1世と織田信長の築城では、その機能と同じくらいに「見る人に威圧感を与える」外観であることを 重視している印象です。エドワード1世が「偉大な王」と後世で称されるのは、これらの要塞がもつビジュアルインパクトの影響もありそうです。

今回ご紹介するチャークは、北ウェールズにありますがエドワード1世自身が築城したわけではなく、エドワード1世が、部下ロジャー・モーティマー(Roger Mortimer, ?1256-1326)に建築させた要塞です。しかし、その外観は、コンウィなどによく似ています。

カントリーハウスには、その起源を中世の要塞、中世の教会や修道院を辿るものが多くあります。起源が要塞の場合、その多くは小高い丘の上にあります。ワイト島のキャリスブルック(本サイト参照)、ノッティンガム・カースル(本サイト参照)などがその例で、キャリスブルックは自転車で行ったのですが、猛暑の中、自転車を押して上がるその道のりの厳しかったこと… 着いた時には疲労困憊でした。ノッティンガムでは、宿泊したB&Bのオーナーのご厚意により、カースルまで車で送っていただきました。ピカピカの白いポルシェに乗せていただき、ブォーンとエンジンを鳴らしながら急な坂を上がるのは、とてもよい気分でした。

チャークに話を戻します。丘のふもとにある受付でもらったマップを広げると、カースルは丘の上で、ふもとからのカーブを描く道は、結構な距離がありそうです。木々に囲まれた登り坂を歩いていると、シニアの方々を載せたミニバスが、ゆっくりと横を走りぬけていきました。カーブを曲がると、視界が広がり、そこにはチャークの大パノラマが広がっています。絶景に感動。そして、後ろを振り返ると、そこには、人を威圧する規模の要塞がそびえているのでした。

左はガードタワー、どっしりと太い塔の上にウェールズの旗が翻る

エドワード1世は、1282年にウェールズで反乱を鎮圧したあと、モーティマーにチャーク領地を与え、要塞の建築は1295年に始まりました。エドワード1世はモーティマーに築城のための金を貸付、さらにコンウィなどを建築したジェイムズ・オブ・セントジョージ(James of St. George, ?)を紹介しただろうと、現在チャークを管理運営するナショナル・トラストはみています。

後に、チャークはモーティマー家から離れて王領となりました。エリザベス1世(Elizabeth I, 1533-1603) が恋人ロバート・ダドリー ( Robert Dudly, 1st Earl of Leicester, 1532-1588) にチャークを与えました。ダドリーは、女王を迎えるためにケニルワース(本サイト参照)を大改築しましたが、ダドリーによるチャークの改築の記録は残らないようです。ダドリー死後は何人かの所有者を経て、チャークは、1595年、トマス・ミドルトン(Thomas Myddelton,1550-1631、以下父トマス)により購入されました。

チャーク近くのデンビー領知事の4男に生まれた父トマスは、東インド会社の創設者の一人で、その投資で成功をおさめました。のちにロンドン市長になり、デンビーの領主権を購入し、この領地で、父トマスは銅山を開発して収益を上げ、地域のジェントリーに金の貸付を行い、さらに富裕になりました。父トマスは、チャークを購入し、長男トマス・ミドルトン(Thomas Myddelton younger, 1586-1666)に結婚祝いとして与えました。今回の主役は、結婚祝いとしてチャークを与えられたトマスです。

ピュージン(A.W. Pugin, 1812-1852) が内装を手がけた「クロムウェル・ホール」、その名の由来は清教徒革命時に使われた武器を多数、飾り付けてあることから。写真に映る
五角形の台は、父トマスの時代のもの。
コートヤード、清教徒革命時は、ここで連隊が戦闘訓練をしていた

Thomas Myddleton  (1586-1666)、トマス・ミドルトン

トマスは1605年2月にオックスフォード大学、クイーンズカレッジからグレイズ・インに入り、法律を学びました。その後、ウェールズに戻り、父トマスの仕事を手伝っていました。チャーク領地の境界線問題で、隣人との争いが起こったことをきっかけに、トマスはデンビー代表の国会議員となりました。境界線問題を解決するには、公的権力をもつことが必要だったのでしょうか。1642年に清教徒革命が始まると、ジェントリーの大多数が王党派であるデンビーで、議会派であったトマスは議会の要請でデンビーの議会派軍を編成しました。

暖炉上の石膏は、清教徒革命前からチャークに残る唯一の装飾

しかし、トマスの留守中に、チャールズ1世の命令で集結したデンビーの王党派軍はチャークを攻撃し、指揮官不在のチャークは、応戦むなしく占領されてしまいました。王党派の司令官ロバート・エリスは、1643年11月にはトマスの資金を使って連隊を編成し、チャークを王軍の拠点としました。

翌年、トマスは、自軍を率いチャーク奪還を試みますが失敗。大砲を使えば、王軍を壊滅させることができたかもしれませんが、13世紀からの歴史があり、自宅であるチャークにトマスは大砲を撃ち込むことができませんでした。

しかし、このままチャークを王軍に渡すわけにはいきません。

チャークの占領が長引く中、1646年、トマスは、チャークを仕切る王党派軍司令官ジョン・ウォールズに賄賂を贈りました。この頃、王党軍が劣勢に転じていたのも影響したかもしれませんが、ウォールズは賄賂と引き換えにチャークをトマスに明け渡しました。賄賂の内容が気になります。

その後、チャールズ1世が処刑され、議会派による政治が始まって2年ほど経つと、トマスは、議会派の国家運営に失望し、逃亡中のチャールズ2世 (Charles II, 1630-1685) と連絡をとるようになります。するとその噂を聞きつけた議会は、1651年3月にチャークに衛兵を配置しトマスの監視を始めました。監視は1656年にトマスが議会に忠誠を示す多大な保証金を支払うまで5年間続きました。1651年夏には、チャールズ2世がトマスに軍に加わるよう要請していますが、監視下におかれていたトマスは参加することができませんでした。同年9月3日ウースターの戦い (The Battle of Worcester) でチャールズ2世は、オリバー・クロムウェル軍に大敗し、ノルマンディーへ逃れました。

1658年にクロムウェルはインフルエンザで死亡。その後、チェシャーでジョージ・ブース (George Booth, 1st Baron Delamer, 1622-1684) がチャールズ2世の復位を目指して蜂起した際に、トマスも駆けつけ加担しましたが、ブースは議会軍に敗北します。トマスは蜂起の場での逮捕は逃れましたが、1660年2月に議会に呼ばれ、訴追されます。この議会で、他の離反者と共に財産差押の審議が行われましたが、トマスの財産差押は、保留となりました。

チャークは差押にはならなかったのですが、議会軍はチャークを攻撃し大砲を撃ち込み、東の壁と東塔を破壊。チャークは廃墟と化してしまいました。差押になって、破壊されなかったほうがよかったのではと思います。議会の目的は、チャークを要塞として機能不全にすることだったのでしょう。

72歳のトマスにチャークを再建する気力は、残されていませんでした。王軍、議会軍、両方の攻撃を受け、トマスは、清教徒革命中に8万ポンド以上の損失を被ったといわれます。

1660年にチャールズ2世が王位につき王政復古。王政復古3年後トマスの長男トマス(Thomas Myddelton, 1624-1663) はトマスより先に亡くなり、その3年後にトマスは80歳で死去。チャークの再建は、トマスの妻メアリー・ナピア(Mary Napier)と、トマスの孫のトマス(Thomas Myddleton, 1651-84)によって始められ、 その後ミドルトン家代々の当主が改築してきました。今のチャークは、外観は要塞ですが、中はゴシック・リヴァイバル様式、新古典主義様式が混在する優雅なカントリーハウスです。

クロムウェル・ホール、ピュージンが19世紀に、清教徒革命の内乱戦で使われた武器で装飾したゴシック・リヴァイバル様式
大階段、ここから上は、新古典主義様式になる
ステート・ダイニング・ルーム
サルーン
ステート・ベッドルーム
ドローイング・ルームのシャンデリア
ドローイングルームにあるチャベル、壁の厚さがわかる
ドローイングルーム
ロング・ギャラリー
日本製の南蛮チェスト、エイの皮製品。蓋の裏には、虎と竹が描かれている。虎は勇気、竹は曲げても折れないことから忍耐を意味。日本とウェールズを繋ぐ最初の物品とされる
地下の厨房は、いまはカフェになっている。皆さん外の席に座っていたので、室内にいたのは私一人でした。

1981年にナショナル・トラストに寄贈された後も、ミドルトン・ファミリーはチャークに住み続けましたが、2004年に最後の当主ガイ・ミドルトン(Guy Myddelton, b. 1966) が、近隣の家に引っ越してからは当主不在となりました。ミドルトン・ファミリーはチャークを後にしましたが、今でもチャークを頻繁に訪れているようです。

清教徒革命では、議会軍が領主の土地を占領し、莫大な罰金(議会に従わなかったという理由で)を払わせて、軍を引き上げるという方法で領主達から資金を得ると同時に、反議会軍編成の予防策として邸宅を破壊することもありました。しかし、ヘンリー8世がカトリック教会を破壊し、教会領地を強制没収したのとは違って、議会軍が強制的に領地を没収するということは、あまりなかったようです。

清教徒革命中、破壊された邸宅の瓦礫は残され、その瓦礫を使って再建された邸宅は、チャークのように中世の風情を残します。

広々としたガーデンがある
要塞とバラ
ラベンダーの散歩道と要塞の壁
黄バラに挟まれるベンチ
平和なチャーク
生垣の色使いがおもしろい
恋人たちのお話が、弾みそうなベンチ
600年の歴史を経たチャーク、トピアリーとの組み合わせが美しい

参考:Chirk Castle, National Trust, 2023, ’Thomas Myddelton’, Dictionary of Welsh Biography, accessed Nov. 18, 2024