ヒストリックハウス名:ポイズ・カースル、階段状の花壇とイチイの木が特徴のガーデン、各段には通路があり散策できる

所在地域:北ウェールズ、ポイズ

訪問:2024年6月27日

丘の上に聳えるポイズ・カースル(以下ポイズ)は、セバーン峡谷を南に臨みます。ポイズの歴史は12世紀にウェールズの王子が住んだコッホ城まで遡りますが、現在の3階建の邸宅はエリザベス1世時代に増築されました。増築当時、大変な贅沢品だったガラスを使った窓が多数あり、施主エドワード・ハーバート(Edward Herbert, 1544-1595)が富裕だったことがわかります。

建物の南側、セバーン・バレーを借景にガーデンが広がります。

いつまでも眺めていたかったポイズから臨むセバーン峡谷、

ポイズが建つ丘の斜面には、階段状のイタリアン・テラスがあり、多彩な花が植えられています。

日本の段々畑のように花壇がある。レンガは太陽光の熱を蓄熱し、夜間に熱を放出して植物を温める
花と森とセバーン峡谷の組み合わせ。

花壇の周りのイチイはユニークな形状に刈り込まれています。中には、大変珍しいとされる高さ9メートルにも及ぶイチイもあります。

山のように盛り上がるイチイ。
大きく育ったイチイ

イタリアン・テラスから下へ降りると、グレート・ローン(芝生広場)、樹齢100年以上のリンゴの木や色とりどりのバラが植えられたフォーマル・ガーデン、ワイルドネスという名の鬱蒼とした森が広がります。

右側はグレート・ローン(芝生広場)、赤ちゃんがヨチヨチと歩いては転んでいました。
フォーマルガーデンの散歩道。ガーデンには私一人。静寂がよかったです。
フォーマル・ガーデンのバラ園。6月はバラが美しい季節。
持ち運びできる持ち手つきベンチ。日陰に座りたい人、日なたに座りたい人。好みの場所へベンチを移動できる。

邸宅からガーデンへと降りる時には、階段に植えられた多彩な花々の美しさに目を奪われ、ガーデン散策中はグレート・ローンからフォーマル・ガーデン、フォーマル・ガーデンからワイルドネスとガーデンを移動するたびに景色が一変し、そしてガーデンから邸宅へと階段を上る時には、散策してきたガーデンを上から眺めることへの期待で気持ちが高揚しました。

南側に設けられたオランジェリー(温室)、オレンジなど南国の果物を栽培していた。オランジェリーの上段には刈り込まれたイチイが並ぶ

今回は、16世紀にポイズで生まれ、ポイズに70年住んだ末にポイズから追放された当主ウィリアム・ハーバートについて書きます。

William Herbert, 1st Lord Powis (1574-1656)、ウィリアム・ハーバート、初代ポイズ男爵

ウィリアムの父、エドワード・ハーバートはペンブルック伯爵(William Herbert, 1st Earl of Pembroke, 1501-1570, 当サイト、ウィルトン・ハウス参照)の次男でした。次男は長男が存命である限り、父の領地を承継して領主になることはできません。次男エドワードは、父の領地から離れたポイズ周辺地域の土地を購入して領地化をすすめ、モンゴメリー城(Montgomery Castle) とラグラン城 ( Raglan Castle) に続きポイズを購入しました。

ポイズの当主となったエドワードはエリザベス1世時代後半、邸宅建設では必須といえるロングギャラリー(悪天候の日に室内で散歩することを目的とする細長い部屋、当主の美術コレクションを展示し富や趣味をさりげなく顕示する場でもあった)などを増築しました。ボールルームには当時建てられた邸宅によく見られる複雑な天井の漆喰細工、壁にあしらわれた果物や花の束の漆喰飾り、多数の紋章を用いたフリーズ(天井と壁面の境目などにつける装飾帯)があります。暖炉の上のエドワードの紋章は、アダムとイブが蛇に誘惑されている対の絵に挟まれています。聖書の話や神話をモチーフとした装飾は、同じ時代に建てられた邸宅ハードウィック・ホール (Hardwick Hall, 当サイト参照)にも見られます。

エドワードの母アン・パー(Anne Herbert, 1515-1552) はヘンリー8世の6番目の妻のキャサリン・パー(Katherine Parr, 1512-1548) の妹です。アンはヘンリー8世の6人の妻全員に仕えた女官であったことでも知られます。

エドワードによって、整備され時代に合った邸宅になったポイズを、今回の主人公ウィリアムは父の死により21歳で承継しました。ウィリムは1604年、30歳でモンゴメリー代表下院議員、1613年にはモンゴメリーの州長官(High sheriff) になり、1614年、24年、25年、26年、28年と連続して代表議員で、1629年には、チャールズ1世からポイズ男爵に叙爵されました。カトリックであったエドワードは、同じくカトリックの大物貴族ノーザンバーランド伯爵の娘エレノア・パーシー(Eleanor Percy, 1583-1650) と結婚します。

次男に生まれたが自力で領主となり邸宅を整えた父、エドワード。その息子ウィリアムは政治家として実績を積んで男爵になり、大物貴族の娘を妻に迎えたのでした。

この頃、議会と王が対立する動き(一般に清教徒革命と呼ばれる)がある中、ウィリアムはチャールズ1世を支える王党派の立場を選び、ポイズは王党派の拠点の一つに。

議会と王の対立が激しくなっていく中、ウィリアムの頭痛の種は成年になり政治活動を始めた長男パーシー(Percey Herbert, 1598-1667)でした。ウィリアムとパーシーは相当に不仲だったようで、ウィリアムは息子パーシーを反逆罪で訴え、パーシーは海外追放となってしまいました。

父と息子の不仲で思い出すのは、エドワード1世 (Edward I, 1239-1307) とエドワード2世(Edward II, 1284-1327)、ジョージ1世(1660-1727)とジョージ2世 (George II, 1683-1760)、ジョージ2世 と長男フレデリック(ジョージ2世より先に病没したジョージ3世の父、Frederick Louis, 1707-1751)、ジョージ5世(George V, 1865-1936) とエドワード8世(Edward VIII, 1894-1972) です。母ゾフィア・ドロテア(1666-1726)を幽閉したジョージ1世を恨んでジョージ2世は父と不仲だったとされますが、他はいずれも父の息子への期待の空回りから不仲に発展したようです。ウィリアムとパーシーの不仲は何が原因だったのでしょうか。

ウィリアムとパーシーが行き来したであろう東のエントランス

1644年10月2日の夜、チャーク(Chirk, 当サイト参照)のトマス・ミドルトンが率いる議会軍がポイズを急襲し、城門を爆薬で粉々に破壊。ミドルトン軍は嵐のように攻め入り、あっという間にポイズを占拠してしまいました。このとき、ウィリアムは70歳。

議会軍が急襲した入り口。石造りのファサードは18世紀になってから付け足された。
議会軍が急襲した入り口の中を、見ることができる

ウィリアムは議会軍に連行されウェム(Wem)、スタフォード(Stafford)で幽閉された後、ロンドンに移され週4ポンドで暮らすことを強いられました。1655年にウィリアムは、82歳にもなって飢えている… と書き残しています。その翌年ウィリアムは、82歳で亡くなりました。

ポイズはのちに帰国したパーシーに議会軍から返却されますが、パーシーがポイズに住むことはありませんでした。パーシーの息子第3代男爵ウィリアム( William Herbert, 3rd Baron & 1st Earl and Marquess of Powis, 1626-96) がポイズを改築してガーデン開発し、ポイズは今に残ります。しかし、ウィリアムの父エドワードが購入したモンゴメリー城とラグラン城は、議会軍に破壊され廃墟となりました。

興味深いのは、パーシーは海外に追放されている間に、物語『クロリア姫』(The Princess Cloria, 1653, 1654) を匿名で出版したのですが、この物語は17世紀のイギリスの内乱の寓話であり、部分的にはヨーロッパにおける30年戦争を描写しているということです。この物語では、パーシーが王権を支持していることがわかるようです。ウィリアムとパーシーは二人とも王権を支持していたのに、ウィリアムが息子パーシーを反逆者扱いしたということは、王権のあり方についての意見が父ウィリアムと相当に違っていたのでしょうか。

それにしても、息子を海外追放した末に、70歳で自宅から追放されて82歳でひもじい思いをして亡くなったウィリアムは、気の毒な人と呼びたくなります。

ウィリアムとパーシーの肖像画を見ると、二人のおしゃれぶりが伝わってきます。ウィリアムはブラウンの地に黒の矢作(やはぎ)模様がある袖が大きく膨らんだ上着と同生地のズボン。襟と袖には純白のレースがあしらわれ、細かな細工がされている左右非対称のデザインベルトのバックルは金で楽器のホルンのような形。ウィリアムの額には、ごく細い毛束が一筋垂れています。

一方、パーシーは、上下とも起毛があるふんわりとした黒の生地で、襟と袖にはハリ感のある大きなレースが巻きつけられ、そのレース編みがどこまでも微細です。脇下からおへそ付近にむかって落ちることでV字を描くように着用されている金のベルトにはオレンジのリボン飾りが連続してつけられ、そのベルトに上にさらに細い金の革帯のようなものが、ベルト右側から左へ緩やかなカーブを描いています。

おしゃれぶりが伝わってくる肖像画といえば、まず思い出すのは、エリザベス1世の愛人ダドリー(Robert Dudley, 1st Earl of Leicester, 1532-1588) で、上下白一色に金をあしらった軍服姿。ウィリアムと父エドワードの肖像画は、ダドリーほどではないにせよ、服装やポーズから、おしゃれへのこだわりがムンムンと伝わってきます。

ジェイムズ1世(1566-1625) はハンサム好きだったということなので、おしゃれ心のある宮廷の男性たちは、服装に配慮していたことでしょう。

丘の上に聳え立つポイズは、おしゃれな父子、ウィリアムとパーシーの穏やかではなかった日々を私に伝えてくれたのでした。

ポイズの中は撮影禁止でした。壮観だったのは、王政復古後にチャールズ2世のために建築されたという国王のベッドルームで、現チャールズ国王が宿泊されたそうです。マホガニーの天蓋ベッドにはクリムゾンレッドの絹の天蓋カバーがかけられ、ベッドの前には柵が設らえられ、天井から壁にかけて4重、5重に漆喰飾りのコーニス(天井と壁の間の装飾帯)があり、豪華な空間はコーニスによって造られることを知りました。

室内は、団体客を迎えて混み合っていたのですが、一歩外へでると、のんびり散歩中の親子が… カフェで一息つきました。

孔雀とそのヒナ。カフェのテラスを歩き回ってました。
ツナとコーンとロケット(ルッコラ)のサンドイッチ、この組み合わせ、私の好みです。
「私たちは皆、静寂を必要とし、私たちは皆、美を求め、私たちは皆、空間を必要とする」オクタヴィア・ヒル(ナショナル・トラストの創設者の一人)

ポイズには静寂、美、空間が、確かにありました。

参考:Andrew Barber. Powis Castle. National Trust, 2019.