ヒストリックハウス名:コンウィ・カースル
所在地域:北ウェールズ、コンウィ
訪問:2024年6月29日

コンウィ・カースル(以下コンウィ)は築城から700年以上経った今も塔と城壁がほぼ当時のまま、残っています。


コンウィは世界遺産。訪問した日は土曜日で、多くの観光客で賑わっていました。狭めの駐車場は満車。すぐには停められず、狭い駐車場の中をグルグル回っているうちにやっと出る車があり、駐車できました。

次のハードルが、駐車券発券機。イングランドでは苦労した覚えがないのですが、コンウィの発券機は私には難解で???と何回もやり直して、やっと発券できました。帰り際に発券に苦労している外国人を見かけました。もう一度あの発券機を相手にすぐ発券できる自信がありません。

コンウィは、エドワード1世 (Edward I, 1239-1307)が北ウェールズに築いた城の一つ。その存在感は今でも圧倒的です。13世紀、高い建物がほとんどなかった時代にドーンと建てられたコンウィ。人々はどのような印象をもったでしょうか。エドワード1世は、北ウェールズにおいてコンウィの他にフリント、ルディアン、デガンウィ、ビューマリス、カーナフォン(当サイト参照)、ハーレィ、アバリステゥに新たに築城した他、ホープなど既存の9つの城を修繕、または改築しました。

フランスからやってきてイングランドを征服したウィリアム征服王(William the Conqueror、ウィリアム1世、1027?-1087) は、多数の要塞を築城しましたが、イングランドからやってきて北ウェールズを征服したエドワード1世も多数の要塞(城)を短期間に建築し、その多くが今も残ります。

冬季、寒さが厳しい北ウェールズで築城工事をできる期間は、中世においては4月〜11月に限られていました。しかし、エドワード1世がウェールズを征服した1283年の4年後、1287年には、コンウィはほぼ完成していました。延べ工事期間は、約2年といえるでしょうか。

コンウィの築城工事にイングランド全域から職人が集められた記録は今に残り、築城が国家をあげてのプロジェクトだったことがわかります。エドワード1世は、歴代のイギリス王のなかでも特に尊敬されている王のようですが、築城実績ではナンバーワンと思われます。

コンウィの町は、コンウィ築城と同時に建築された21の塔をつなぐ城壁に囲まれてい、これらの塔と城壁は今も残ります。宿にむけて車で10分ほど走ると聳え立つ城壁が俄に現れ、湾に沿って城壁が張り巡らされていることがわかりました。

イングランド全土の人力を結集して建てられたコンウィですが、エドワード1世の死後はメンテナンスされることなく廃れていきました。16世紀になると、ヘンリー8世が大規模改修を施し、武器庫、牢獄として活用しました。また一部を王族の居住用に整備してたということで、皇太子(プリンス・オブ・ウェールズ)が生まれたら住まわせるようにと考えていたのかもしれません。実際はヘンリー8世の長男エドワード(Edward VI, 1537-1553)は病弱だったからかウェールズに滞在したことはありません。

チャペルタワー、壁の厚さは2メートル以上、壁が厚いと防衛力が上がるだけでなく、断熱もアップ。北ウェールズの冬の寒さをしのぐのに役立つ。

そしてコンウィは、再び廃れていきました。1586年に好古家で旅行家のウィリアム・カムデン(William Camden, d. 1523) は、コンウィの城壁の美さを讃えるとともに「コンウィ城に住んでいる人は殆どいない」と書き残しています。

コンウィカースル、グレートホール、屋根と床はずっと落ちたまま、窓の下に並ぶ四角い穴は床材を支える梁がはいっていた
窓の形はゴシック様式、壁は違う形の石が積み上げられてできている

そんなコンウィは17世紀前半、イギリス内戦の時代に、再び注目されることになります。

今回の主役は、コンウィ出身でジェイムズ1世に説教上手を認められて出世し、ヨーク大司教(英国国教会ではカンタベリー大司教がトップ、No.2はヨーク大司教)になり国政の舞台に立つまでになったのにチャールズ1世に愛想をつかし、議会派に転身したジョン・ウィリアムズです。

John Williams, Archbishop of York (d. 1650)、ヨーク大司教 ジョン・ウィリアムズ

チャールズ1世(Charles I, 1600-1649, 以下チャールズ)は1625年に即位して以来、財政難で首が回りませんでした。財政難の主な理由は大陸で断続的に行われていた30年戦争の戦費負担です。

チャールズの借金対策の一つは、臣下への王領売却。朽ちてはいても王領であり続けたコンウィをチャールズは1627年6月26日、国務長官で初代コンウィ男爵エドワード(d. 1631)に100ポンドで売却し、エドワードはコンウィ・カースルのコンウィ子爵に叙爵されました。王領を購入してくれたことへのお礼の位階アップでしょうか。

エドワードが購入した際、コンウィは殆ど廃墟で、屋根、床は崩落して無く、建物とは呼べない状態でした。国王から頼み込まれエドワードは「いらないけど…」と思いながらも、渋々、購入したのかもしれません。

コンウィ購入4年後にエドワードは死亡。息子のエドワードは再建したかったようですが、莫大な費用を調達する術はなく再建を断念しました。

そこへやってきたのが、今回の主役ジョン・ウィリアムズ(以下ウィリアムズ)です。

コンウィで生まれ育ったウィリアムズは、ケンブリッジ大学のフェローから同大学の司教になるとジェイムズ1世の前で説教をする機会を得ます。ウィリアムを気に入ったジェイムズは、1617年にウィリアムを王専属の司教(King’s chaplain)に抜擢しました。ウィリアムズは1620年、ウェストミンスター大司教に昇進し、1621年にはリンカーン司教になり同時に国璽大臣(Lord Keeper of the Great Seal) に任命され、トントン拍子の出世を遂げました。

ジェイムズ1世のおかげで出世し、大臣にまでなったウィリアムズはジェイムズ1世の忠実な臣下でした。順調な出世街道を歩むウィリアムズは、カンタベリー大司教ロード(William Laud, 1573-1645)や王の右腕トマス・ウェントワース(Thomas Wentworth, 1st Earl of Strafford, 1593-1641)の反感を買ったようで、偽証罪を問われ1636年〜40年の4年間、ロンドン塔に収監されてしまいます。ウィリアムズは、いったん開放されるも、1641年議会により再び収監されます。そして解放されるとチャールズ1世によりヨーク大司教(1641-1646) に任命されました。

ウィリアムズは、59歳から64歳までヨーク大司教を務めました。ヨーク大司教になったことで、さすがに収監されにくかったようです。この時期、議会の合意なき徴税などを原因に議会は国王への不信感を強め、王党派VS議会派の内乱に発展していきました。

ヨーク大司教になった60歳のウィリアムズは当然、王党派。チャールズとコンウィを議会軍から守ることを決意し、ホームタウンであるコンウィに戻りました。ウィリアムズは、司教でありながら軍を編成し、自らが指揮しました。物資はアイルランドから調達。判断と行動の速さは注目に値します。

1643年、チャールズはウィリアムズに、「コンウィの修繕を任せた、かかった費用はすべて王室が払い戻す、払い戻しが完了するまではウィリアムズにコンウィを任せる」と書き送っています。この手紙によりウィリアムは、チャールズを守り、コンウィを防衛することへの決意を新たにします。

しかし、議会は1645年1月ジョン・オーウェン(John Owen, d. 1666)を、コンウィの州長官としてコンウィに送り込んできました。

1645年5月9日オーウェンの軍は、コンウィの備蓄庫を攻撃。このあたりで熱心な王党派だったウィリアムズは、議会派に転身してしまいました。議会派は1644年7月のマーストン・ムーアの戦いで勝利し、議会軍こそが「聖者の軍隊」であり、国王軍を「信仰の敵」と位置付け、国王軍は劣勢になりはじめていました。この頃、王党軍はオックスフォードシャーに本部をおいていました。本部から遠く離れたコンウィで王党派から議会派へ転身したウィリアムズの心持ちはどんなものだったのでしょうか。

ウィリアムズが見たであろう城壁内、コートヤードの風景

1646年8月に議会派ミットン将軍(Thomas Mytton, d. 1656) の攻撃でコンウィが包囲されるとチャールズは11月に王党軍に降伏を許可し、コンウィは議会軍の拠点に変わったのでした。

コンウィは劣勢になった王軍の最後の3つの拠点のうちの一つでした。

駐車場から見上げる右サウスウェスト・タワー(直径12メートル)と左ノースウェスト・タワー(直径13メートル)、このようなタワーがコンウィ・カースルには8つある、細い線のように見えるのは窓、敵が現れるとこの窓から矢を射る

コンウィを出て3分ほど歩いたコンウィ河ほとりに、「イギリスで一番小さい家」(巨大な城コンウィの対比でしょうか)という観光スポットがあり長蛇の列!家の小ささよりも、その長蛇のほうに驚きました。

一番小さいお家。小さな窓がかわいい。
小さなお家はコンウィ・カースルの一部だった?塔を利用して建てられている

コンウィで泊まった宿、Groes Innは私好みの宿でした。Groes Innは、1573年開業でウェールズで一番古い宿ということです。スタッフがフレンドリーでウェールズ語を教えてくれたのが、良い思い出です。

ケルトの模様が入ったプレート、スタッフの方に購入できるか尋ねると「差し上げるわ!」と一枚プレゼントしてくださいました。
宿の営業許可証?ウェールズで1番古い宿の根拠ということです。
古い宿には、古い本がある、毛糸入れの模様がかわいい
背もたれが高く、包まれるような座り心地のチェア、タータンがそれぞれ違う

参考:Jeremy A. Ashbee, Conwy Castle and Town Walls, 2015. Cadw.、太田静六『イギリスの古城』、1986年.