6月はローズガーデンが美しい。外光を最大限に取り込めるよう5方向に窓がある
邸宅正面、エリザベス1世時代の建築スタイル

ヒストリックハウス名:ベントホール・ホール

所在地域:シュロップシャー

訪問:2024年6月26日

ベントホール・ホール(以下ベントホール)は、ベントホール一族の家であることから邸宅名にホールが二つつきます。ベントホールとは、アングロ・サクソン語で「大きく育ちすぎて曲がった草が茂る地」という意味です。今に残る邸宅の礎は1000年以上前、サクソンの時代に建てられた建物が増改築されたものです。

1250年、フィリップ・ド・ベントホール(Philip de Benthall, d. 1281) はヘンリー3世より修道院建設の許可を得て建物の増築を行ないました。しかし、フィリップにはベントホールを継承させる息子がおらず娘のマジョーリ( Margery de Benthll ) がいるのみでした。

その頃、国政を握る有力者の一人にロバート・バーネル (Robert Burnell、以下バーネル) がいました。。バーネルはバースとウェルの司教で大臣 (Lord Chancellor)も務めていました。ベントホールの承継者がいないことを知ったバーネルは、1283年、ベントホールを取得し、バーネルの親族のジョン・バーネル(John Burnell, ?) とマジョーリを結婚させました。そしてロバートの権勢のおかげで2人は紋章を得て、バーネル家はこれより紋章をもつジェントリの一族となりました。紋章をもつことにより、貴族ではないけれど支配階級に属することが公的に認められたといった感じになるのでしょうか。時代は16世紀になりますが、シェイクスピアの父親(手袋職人)は紋章を得るために随分と頑張ったそうで、紋章を得ることは階級社会イギリスでは、かなり重要だったことがわかります。

紋章を得たベントホール一族は、ジョンとマジョーリの長男フィリップ (Philip Buenell de Benthale, active 1330) から現在まで、直系男子の承継が700年以上に渡り続いています。

現在の邸宅は、16世紀にウィリアム・ベントホール (William Benthall, d. 1572.) が建築したとされます。

ドローイング・ルームの美しい漆喰細工

カトリックを信仰するベントホール家の邸宅には、司祭をかくまうシェルターが書斎の隠しドアの向こうに造られました。しかし使われなくなったシェルターは長年忘れられた存在となり、知る人もいなくなっていたのが1935年に再発見されたそうです。秘密のシェルター付き邸宅を建築したのは、その道のプロ、オーウェン(Brother Owen, ? )です。

オーウェンは16世紀後半、イングランドのあちこちにカトリック司祭用隠し部屋つき邸宅を建築しました。しかし、1605年の火薬陰謀事件(Gunpower Plot)発覚後、オーウェンは逮捕されてロンドン塔で拷問され死亡。オーウェンは拷問されても自分が建築した邸宅については、一切自白せずに亡くなったということです。

今回の主役は、隠し部屋付き邸宅を建築したウィリアムのひ孫、ローレンス・ベントホール(以下ローレンス)です。

Lawrence Benthall (d. 1652)、ローレンス・ベントホール

ローレンスがベントホールの当主であったのは1633年から1652年です。この時期、イギリスではチャールズ1世および国王側近への不満から国内は議会派と王党派に分かれての戦争状態に。そして王党派が劣勢となってチャールズ1世が処刑されました。

ローレンスは、グロスターシャー、ウィットフィールドのキャサリン・キャシーと結婚しました。キャシーも紋章をもつ一族で、ベントホール家の紋章とキャシー家の紋章が、ダイニングルームの暖炉の上に誇らしく飾られています。このように紋章を暖炉の上など自然と目に入る位置に飾ることで紋章を持つ家系であることを、客人にさりげなく… あからさまに示すのです。

1630年にローレンスが作らせた紋章つきオークのパネリング、上部はバーネル家の紋章、下部はローレンスの妻の紋章で二本のライオンの尻尾が特徴。暖炉は1756年に建築家 Thomas Farnolls Pritchardの設計で造られた。暖炉の石は3500万年前のもの。

1642年、内戦が始まるとチャールズ1世はベントホールをシュールズベリーの本部としました。ベントホール周辺一帯はイングランド西部で最も重要な炭鉱地域で、当時年間3万トンの石炭を産出していました。近くにあるセヴァーン川はブリッジワース、ウースターへの石炭の輸送に使われます。ベントホールはセヴァーン川の監視をするのにうってつけの場所にありました。チャールズ1世からの指令をうけ、ローレンスは邸宅として建てられたベントホールを要塞化しました。

さりげなく置かれている甲冑、内乱時に使われていたかも?

1643年3月ミットン大佐(Thomas Mytton, 1597-1656) 率いる議会軍がベントホールを攻撃するもローレンスの反撃で議会軍は撤退しました。しかし、1645年2月、ミットン大佐の夜襲によりベントホールは陥落してしまいました。これをきっかけにベントホール周辺地域も議会軍の手中におちます。この夜襲のあとは、いまも建物に残ります。

左の棟の一番上の窓の右下に残るのは、議会軍から大砲を撃ち込まれた痕、石積みの造りなので、修復は困難なようです

そして1645年7月に議会軍はベントホールを占領。しかし、石炭の産出と輸送の観点から重要なベントホールを、議会軍に渡すわけにはいきません。

いったん議会軍に占領されたベントホールですが、王党軍はベントホールを急襲します。1時間の激戦がありましたが、劣勢となった王党軍は退却せざるおえなくなります。気の毒なことにベントホールは議会軍、王党軍の両方から攻撃を受けざるおえませんでした。

ローレンスとキャサリンの息子カシウス・ベントホール(Cassius Benthall, 1623-46)は、王軍の主戦力の一人で、王軍が敗れたシュールズベリーでの戦いのあと、議会軍に収監されるも脱走し若干23歳で大佐となりました。しかし、1646 年3月王軍が壊滅的敗戦を被ったストウ・オン・ザ・ウールドの戦いで戦死。

内乱後、ベントホールはローレンスに返却されますが王党派であったことから議会から多額の罰金を課されました。多額の罰金の支払いを終えると、ローレンスのお財布は空っぽ。ローレンスはベントホールが議会軍に破壊された箇所を修繕することもできず、結果として17世紀の邸宅がそのまま現在まで残ることになったのです。

ベントホールの村は議会派に占拠させないために事前に破壊され、その後再建されることはありませんでした。後に炭鉱近くに新たに住宅が作られました。

振り返ると、司教バーネルの権力で、ベントホール一族は紋章をもつジェントリになりました。しかし、紋章を得てなければ、戦時にシュールズベリーの本部にならなかったかもしれません。本部にならなければ、急襲されて占拠されることも、息子を失うこともなかったかもしれません。そして多額の罰金を課されることもなかったかもしれません。

司教バーネルの権勢欲、上昇志向、まとめて言うと自己顕示欲が、内乱時のベントホールの波瀾万丈の起点にあるような気もします。

天井から壁にかけての漆喰細工、17世紀前半の建築によく見られます。曲線と直線の組み合わせが、部屋にメリハリを与えています
邸宅内、最高の芸術品とされる階段。この写真では見えないのですが、階段にも紋章の一部が刻まれています。
キャビネットの上の老女の像は1620年頃に蜜蝋からつくられましま。400年を経ても老女はしっかり立っています。

参考:Paul Benthall. Benthall Hall. National Trust, 2001.