ヒストリックハウス名:モーズリー・オールドホール
所在地域:ウォルバーハンプトン
訪問:2024年7月2日

モーズリー・オールドホール(以下モーズリー)は、一時は廃墟となって朽ちていましたが、再建された今では、まるで17世紀当時そのままの風情があります。
ここでは、自由見学ではなく、ナショナル・トラストのボランティアによるツアーで見学、参加者は5人ほどで静かに邸宅の中を見ることができました。
1649年1月30日、チャールズ1世はロンドン、ホワイトホール、バンケティングハウス前で議会派により斬首されました。議会派と王党派の対立による内乱から、国王処刑となったのです。国王が処刑されると王党派はチャールズ1世の息子、21歳のチャールズを国王チャールズ2世として議会軍との対抗を続けました。
しかし1651年9月3日ウースターの戦いで王党派はクロムウェルのニューモデル軍に惨敗。王党軍を逃がさないためにウースターの城門は全て閉じられていましたが、唯一まだ開いていたセント・マーティン門から、チャールズ2世は命からがら逃げ出しました。議会軍はチャールズ2世を追いましたが、すぐには追いつけませんでした。しかしチャールズ2世はどこへ向かうのか当初全くあてがなく、2週間に及ぶ逃避行が始まりました。チャールズの逃避行を導き支えたのは、イギリス各地で息をひそめていたカトリック教徒たちでした。
1593年エリザベス1世の時代に制定されたカトリック取締り法では、16歳以上で英国国教会に行かないと収監される、カトリック教徒は5マイル以上家から離れたところに行ってはいけない、3ヶ月以上家を留守にしたカトリック教徒は国外追放になる、などが定められ、カトリック教徒は社会から疎外された存在でした。
チャールズ2世は、カトリック教徒ダービー伯爵 (James Stanley, 7th Earl of Derby, 1607-1651 )に導かれたあとは、カトリック教徒リチャード・ペンデレル (Richard Penderel, 1606-1672) の導きでペンデレルの家、ボスコベル・ハウス(Boscobel House )に向かいました。チャールズ2世は議会軍の追っ手をかわすためにボスコベルの家近くの樫の木の上で一夜を過ごし、この樫の木は、「ロイヤル・オーク」と呼ばれるようになります。ボスコベルにはカトリック神父が隠れる「隠れ穴」があり、チャールズ2世はこの「隠れ穴」でも一夜を過ごしました。
そして、次にチャールズ2世が導かれたのが、今回ご紹介するモーズリー・オールドホール(以下モーズリー)です。
モーズリー・オールドホールは、1600年頃、カトリック教徒ヘンリー・ピット(Henry Pitt, ? )により建てられました。ピットは毛織物取引で財を成した地域の有力者でした。チャールズ2世の逃避行の時、ピットはすでに亡く、モーズリーはピットの娘アリス・ウィットグリーヴ(Alice Whitgreave, 1580-1668 )とアリスの息子で、後に「王の命を救った人」と呼ばれることになるトマス (Thomas ‘the Preserver ‘ Whitgreave, 1618-1702、以下息子トマス ) が住む家になっていました。すでに亡くなっていたアリスの夫、トマス(Thomas Whitgreave, 1568-1626、以下トマス) もアリス同様、熱心なカトリック教徒でした。アリスはイギリス国教会に行くことを拒否したために多額の罰金を課されましたが、罰金を払うことができず、1646年には領地を議会に差し押さえられていました。領地全てがアリスに返されたのは、1660年の王政復古の後でした。
息子トマスは弁護士としてキャリアを積むものの、カトリック教徒が判事になることは禁じられていました。王党派のトマスはネーズビーの戦い(Battle of Naseby, 1645)ではチャールズ1世軍に参戦しましたが、ウースターの戦いには病のため参戦できませんでした。
アリス、息子トマスと共にモーズリーに住んでいたのが、ハドルストン神父(Father Huddleston, 1609-1698)でした。
Charles II (1630-1685)、チャールズ2世
1651年9月3日ウースターの戦いで敗れた21歳のチャーズル2世(以下チャールズ)ができることは、逃げることだけでした。チャールズは前述のダービー伯爵らと60名の兵士と共にウースターの城門を駆け抜けたあと、1日中走り当初はウェールズへ向かいましたが途中で議会軍が待ち受けていることが判って引き返し、スタフォードシャーへと走りボスコベルハウスで一夜を過ごしました。ボスコベルハウスがあるスタフォードシャー、モーズリーがあるウォルバーハンプトンはカトリック教徒が特に多い地域でした。
ボスコベルに議会軍がやってくるであろうことは予見されていたのでチャールズは、木こりの服装に着替えてボスコベルを後にして道なき雑木林を通りモーズリーを目指しました。議会軍の注意をそらすために、ペンデレルの兄弟の一人は、雑木林の別方向に離れたところで、枯れ枝集めをしました。
木こりに扮したチャールズが雑木林を抜けモーズリーに着くと、まだ何も知らされていないアリスが扉を開けて、見知らぬ一行を裏口から迎え入れました。アリスは、チャールズとは知らないまま、負傷しているチャールズを優しく迎え入れ傷の手当てをしました。命懸けの逃避行でハウスに入り、ほっと一息ついたときに優しく看護してくれたアリスは、チャールズに安堵をもたらしたことでしょう。
チャールズがはいったときから変わっていない裏口の扉は、今では「王の扉」(The King’s door )と呼ばれています。

チャールズは、ハドルストン神父の部屋に滞在しました。この部屋には床の下に隠れ穴があり、チャールズはこの隠れ穴で一晩を過ごしたあと、「あんなに快適な場所は他にはない!」と周囲に語りました。チャールズはのちに「陽気な王様」(Merry King)と称されますが、彼の明るく楽天的な性格が伝わってくるエピソードです。モーズリーには、最低でもあと一箇所屋根裏に隠れ穴があったようです。




こういった隠れ穴は、使用人たちが賄賂を受け取り秘密が漏れることを警戒し、どこのカトリック教徒の家でも家主しか知らない秘密でした。
チャールズはモーズリーに2日間滞在し、つかのまの休養をとって英気を養い、フランスへ渡る計画を練りました。
モーズリーでの滞在のあと、チャールズはレーン大佐 ( Colonel John Lane of Bentley, 1609-1667 )の妹のジェイン・レーン ( Jane Lane, Lady Fisher, 1626-1689) の召使に扮し、ブリストルへ向いました。当時、カトリック教徒の行動には制限があり、5マイルより遠くへは出掛けられませんでしたが、ジェインは友人の出産を手伝う目的 で、ブリストルへの旅行許可をすでに取得していたのです。チャールズはジェインの従者に扮し、ブリストルへ向かいましたがブリストルでは船に乗ることができず、さらに南下しブライトン近くのショアハム(Shoreham)から船に乗り、フランスへ逃れることができました。

チャールズの首にかかった懸賞金は1,000ポンド。当時の労働者の生涯賃金を上回る金額でした。一方、チャールズの逃亡を助けた者には極刑が待ち受けていました。逃げるチャールズ自身も命懸けですが、従者も命懸けでした。
逃避行を導いたダービー伯爵は途中で捕えられて斬首されました。
1660年の王政復古後、命懸けでチャールズを救った息子トマスには生涯年金が与えられ、その年金は息子トマスの息子にまで支給され続けました。チャールズは王の逃亡の主導者であったペンデレル4兄弟への感謝として1675年に「ペンデレル一家への感謝」(The Penderel Grant) を制定し100ポンドの基金で年金信託が設立されました。この年金信託の運営は現在に至り、いまでもこの信託からペンデレルの子孫たちに年金が支払われています。
チャールズは逃避行を助けたウィットグリーヴ、ギフォード、ハドルストン神父、ジェイン・レーン、レーン大佐にも年金を支給しました。
ハドルストン神父は、チャールズの母のヘンリエッタ・マリア、チャールズの妻キャサリン・オブ・ブラガンザの専属神父になるという栄誉も与えられました。カトリック教徒は迫害や制約を受けた時代でしたが、ハドルストン神父はその対象外であるいう特別大赦がチャールズから与えられました。
チャールズの弟ジェームズ(James II, 1633-1701) は、チャールズの臨終の際にハドルストン神父を連れ、「かつてあなたの体を救った彼は、今、あなたの魂を救いに来ました」と話し、チャールズはハドルストン神父の祈りと共に亡くなりました。このことから、チャールズは臨終の間際に自分がカトリックであることを告白したと言われていますが、チャールズがカトリック教徒だったと言えるのかどうか… 意見がわかれるかもしれません。
チャールズがカトリックだったどうかは 別として、ハドルストン神父への心からの感謝のなか、亡くなったことは確かでしょう。
チャールズが通りぬけてきた雑木林は、今はガーデンの一部です。雑木林を歩きながら、チャールズがここを通ったことを思い、ハウスが見えたときにはどんなにかほっとしただろうなーと想像。
モーズリーのこじんまりとしたカフェで、カフェ・オレを楽しんだ、ゆっくりとした午後でした。

参考:Moseley Old Hall, National Trust, 2018
