ヒストリックハウス名:ペンズハースト・プレイス

所在地域:ケント

訪問:2025年5月18日

館の外観は14世紀から、変わっていない
館を囲む城壁は取り壊され、城壁の一部がゲートハウスとなっている、左右の細い窓は矢を射るためにあった
館に入る玄関、控えめな造り

英文学の一領域、「カントリーハウス・ポエム」は、詩人ベン・ジョンソン(Ben Johnson, 1572-1637, 以下ジョンソン)がその草分けと言われます。ジョンソンは1616年に、ペンズハースト・プレイス(以下ペンズハースト)を題材に『ペンズハーストへ』(Ben Johnson, To Penshurst, 1616) を発表しました。

この詩ではペンズハーストの建物が豪奢ではなく素朴であること、池には多くの魚が泳ぎ、果樹園では果物がたわわに実っている、庭には花が咲き乱れ、領主は人々に寛大であることなどを讃えています。大学院のイギリス詩の授業でこの詩を学び、訪れることを楽しみにしていました。

ペンズハーストは、ジョンソンが訪れた時から、建物はほとんど変わっていないそうです。魚が泳ぐ池を見ることはできませんでしたが、変化に富む庭園は咲き始めのバラが美しく、ペンズハーストの館に彩をそえていました。

ローズガーデン、まだ咲き始めでした
上からみると、イギリスの旗の形になっている「ユニオン・フラッグ・ガーデン」
おそらく館の高さに合わせてトピアリーを刈り込んでいる

ショップには、地元の方々が製作した手芸や陶芸、描画の作品がたくさんあり、まるで作品展のようでした。カフェは開店直後から地元の方々で賑わい、ペンズハーストが地域の方々に親しまれている場所であることが伝わってきました。

ペンズハーストは、1341年に裕福な商人、プルテニー ( John de Pulteney, ? ) により建築されました。プルトニーはロンドン市長に4回選出され、エドワード3世(Edward III, 1312-1377 ) の対フランス戦に資金協力して、王室は1330年代後半にはプルテニーに数千ポンドの負債があったということです。

当時、ペンズハーストのような豪邸を建てる資金力があるのは王族とごく少数の貴族、そしてカンタベリー大司教くらい。王族、貴族でないプルテニーが豪邸を構えたことは、支配層にどう受け止められたでしょうか。今も建築当時の姿で残るペンズハーストはプルトニーの存在感を現代にも伝えています。

バロンズ・ホール、暖炉がまだ発明されてない時代だった14世紀、ホールの真ん中に「ハース」と呼ばれる炉があり、これが唯一の暖房だった。
屋根を支えるアーチも14世紀のもの、建築技術に感服
壁の厚さが、わかる窓。厚い壁は断熱に優れている

ペンズハーストは、のちにエドワード・スタフォード(Edward Stafford, 3rd Duke of Buckingham ) が領主となり、「バッキンガム・ビルディング」と呼ばれるようになりました。しかし、ヘンリー8世(Henry, VIII, 1491-1547 ) は王室の血をひき、血気盛んで上昇志向が強いスタフォードを王位をねらう脅威と恐れて処刑し、ペンズハーストを没収しました。

映画『ブーリン家の姉妹』のロケ地。映画で実際に着用された衣装が展示されている。肖像画は映画の登場人物であり、ペンズハーストを没収し王室のものとしたヘンリー8世

ヘンリー8世の死後、10歳で王位についたエドワード6世 (Edward VI, 1537-1553) は自分の家庭教師ウィリアム・シドニー(William Sidney, 1482-1554) にペンズハーストを与えました。この時からペンズハーストはシドニーの館となり現在に至ります。

王家から下賜されペンズハーストの領主となったウィリアムですが、領主となった2年後に死亡、ウィリアムの息子ヘンリー・シドニー(Henry Sidney, 1529-1586) が承継しました。ヘンリーはエドワード6世(以下エドワード)の幼馴染でした。病弱で16歳で亡くなったエドワードはヘンリーの腕の中で息絶えたといいます。

ヘンリーは、エリザベス1世の忠臣として宮廷に仕え、1564年には騎士として最高の名誉、ガーター騎士に叙勲されました。しかし、最高の名誉は与えられたものの、宮廷から与えられる報酬は雀の涙ほどで、生活には苦労していたようです。ガーター騎士に叙勲されてから約20年後の1583年、ヘンリーが窮状を嘆いた記録があります。「5,000ポンドの負債があり、羊を育てるのに十分な土地もない…」と。エリザベス1世から男爵への叙勲を内示されるも、位階を保つ資金が不足という理由で、ヘンリーは叙勲を辞退しています。

クイーン・エリザベス・ルーム、エリザベス1世が滞在したとされる部屋、女王をお迎えするにはそれなりの準備が必要で、お迎えする側が財政難に陥ることも

ヘンリーの妻、メアリーはエリザベス1世の恋人、レスター伯ロバート・ダドリー(Robert Dudley, 1st Earl of Leicester, 1532-1588) の妹で、エリザベス1世付きの女官でした。メアリーは、エリザベス1世がはしかにかかったときに献身的に看病した末、自身も感染して発疹のあとがエリザベス1世同様、あとあと残ったということです。

エリザベス1世のデス・マスク

 ヘンリーの長男フィリップ・シドニー(Philip Sidney, 1554-1586、以下フィリップ) は詩人で軍人。シェイクスピア以前の詩人として最も評価されている一人で、彼の著作『アーケイディア』(Arcadia, 1593) がよく知られます。フィリップは徳が高い軍人としても知られ、オランダの戦地で危篤のフィリップに水をもってきた兵士に「私より水を必要としている兵士にあげてくれ」と水を断ったそうです。

フィリップ・シドニー (Sir Philip Sidney, 1554-1586)

フィリップの遺体は戦地オランダからイギリスに戻り、セントポール寺院で国葬が執り行わて同寺院に埋葬されました。王族でない一般人が国葬で送られたのは、フィリップの後にはネルソン (Horatio Nelson, 1st Viscount Nelson, 1758-1805) 、チャーチル ( Winston Churchill, 1874-1965 )、ウェリントン(Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington, 1769-1852) らに限られます。国葬での葬列ではハリネズミがついたフィリップのヘルメットが高く掲げられました。ペンズハーストのロゴマークにもこのヘルメットがあしらわれています。

テーブルの上に置かれているのが、フィリップ・シドニーのはりねずみがついたヘルメット
かっこいい甲冑、誰のものかは不明

父ヘンリーの死後数ヶ月後に戦死したフィリップを継いだのは、9歳年下の弟ロバート・シドニー(Robert Sidney, 1563-1626、以下ロバート)です。

ロバートはジェイムズ1世により、ペンズハースト男爵に叙任され、1616年にはガーター騎士に、1618年にはレスター伯爵に叙勲されました。レスター伯はエリザベス1世の恋人、ロバート・ダドリーの称号でしたが、ロバートには男子がいなかったため称号は消滅していました。ダドリーの甥にあたるロバートにレスター伯位が与えられますが、一度消滅してから改めての叙爵なのでロバートは初代レスター伯となりました。

今回の主役は、このロバートの息子、第二代レスター伯ロバート(以下第二代レスター伯)です。

Robert Sidney (1595-1677), 2nd Earl of Leicester, ロバート・シドニー、第二代レスター伯

1626年、31歳でペンズハーストの領主となった第二代レスター伯ロバートは、豪奢なロンドンのタウンハウス「レスター・ハウス」の建築を開始します。祖父ヘンリーは、名誉は与えられても羊を飼うことができないほどだった…  孫の代でも経済状況はそう変わっていなかったようで… レスター・ハウスは莫大な借金をして建てられました。

建築で生じた莫大な負債の返済のため、レスター・ハウスは自分たちは住まず王室に貸し出されました。ジェイムズ1世の長女、エリザベス・ステュアート (Elizabeth Stuart, 1596-1662, 本サイトStokesay Castle 参照)やジョージ2世 (George II, 1683-1760 )の皇太子フレデリック( Frederick Louis, 1707-1751, 本サイトCliveden House参照 )らが居住しました。しかし、王族が住んでも負債は子孫の重荷となり、維持にかかる費用もままならず、完成150年後には取り壊されてしまいました

現在に残るのは、「レスター・スクエア」という地名だけです。

第二代レスター伯は、ペンズハーストには豪壮なライブラリーを建築しますが、これも子孫に取り壊されて蔵書は売却され、今には残りません。

タペストリー・ルーム、17世紀ブリュッセルで作られたタペストリー、キャビネットは17世紀オランダ製でキャビネットの扉一つ一つの絵は異なる画家によって描かれた。これらは第二代レスター伯の購入か?

チャールズ1世の特使としてフランス駐在をしていた第二代レスター伯ですが、議会派、王党派が対立する内乱の時代に入ると、王と対立する議会派になりました。祖父ヘンリーはエリザベス1世の忠臣、父ロバートはエリザベス1世とジェイムズ1世の忠臣ではありましたが、祖父、父ともに名誉と位階は与えられても経済的には恵まれず、自身も借金苦にあったことで、議会派になったのでしょうか。

内乱が勃発した要因は複合的ですが、チャールズ1世が領主達に、議会での決議なしに「王への協力として」戦費負担を半強制的に求めていたことが要因でないとは言えないでしょう。レスターハウスやライブラリを建築して多額の借金を抱える第二代レスター伯としては、これ以上の出費はやめてくれ、ということだったかも。

注目したいのは、第二代レスター伯の息子たちです。第二代レスター伯の息子、長男フィリップ( Philip Sidney, 3rd Earl of Leicester, 1619-1698)、アルジェノン(Algernon Sidney, 1623-1683)、ヘンリー (Henry Sidney, Earl of Romney,  1641-1704) は、庶民院議員となり活発に政治活動をしていました。

1642年イギリスの内乱開始時、第二代レスター伯は47歳、フィリップは23歳、アルジェノンは19歳、ヘンリーはまだ2歳でした。第二代レスター伯の妻はドロシー・パーシー(Dorothy Percy, 1598-1659) で、二人は1615年に結婚し、ドロシーが21歳のときにフィリップが、43歳のときにヘンリーが生まれているので、兄弟の年齢差が20歳以上あります。

20代のフィリップとアルジェノンは、父親同様クロムウェル側につき議会派に。父親に「我が家は経済難だから、これ以上、税金は払えない。だから税金を強要してくるチャールズは絶対ダメ! 大体、王の独断で上納金がどんどん増えるのは困るんだよ、レスターハウス建てたけど、今は住むこともできやしない。出費はおさえないと!レスターハウスに住むために、うちは議会派一択!」と言われたのでしょうか。。。

フィリップはチャールズ1世の裁判の判事に、アルジェノンは同裁判の運営委員にそれぞれ任命されますが、判事として判決をだすことを拒みました。フィリップとアルジェノンは一貫して議会派であり続け、クロムウェルの共和政議会で議員を続けましたが、王政復古時には、チャールズ2世 (Charles II, 1630-1685, 当サイトMoseley Old Hall 参照)より恩赦をうけています。祖先が君主に忠実な廷臣だったことが、幸いしたのでしょうか。

バロンズ・ルームから階段をあがるとあるダイニングルーム、ご先祖さまなどの肖像画がずらりと並ぶ
ステート・ダイニング・ルームのシャンデリア、今でもキャンドルをともして夕食会をすることがあるそうです
王政復古時の祝賀会で、ワイングラスを洗うのに使われた

しかし、アルジェノンは王政復古後、チャールズ2世の暗殺計画「ライ・ハウス陰謀事件」(Rye House Plot, 1683) に関わってたということで処刑されてしまいました。

そして…  末っ子のヘンリー が21歳(イギリスでの成年)になった1662年、内乱、王政復古も終わりチャールズ2世の治世になっていました。ヘンリーは兄フィリップ、アルジェノンに続いて、政治活動に熱心でした。ヘンリーは、ジェイムズ2世が退位した名誉革命(1688-89)の立役者の一人で、オレンジ公ウィリアム(William III, 1650-1702、以下ウィリアム)をイギリスへ招いた7人のうちの一人です。

名誉革命は議会主導で国王ジェイムズ2世を国外追放し、ジェイムズの娘メアリー(Mary II, 1662-1694 ) とその夫ウィリアム を共同統治者の王とした政変です。

ペンズハーストで生まれ育ったシドニー3兄弟は、議会政治の推進に熱心だったといえますが、その発火点はもしかしたら… 父、第二代レスター伯の借金地獄にあったかも、です。

第二代レスター伯には、フィリップ、アルジェノンと同世代のもう一人の息子ロバート (Robert Sidney, 1626-1668 ) がいましたが、ロバートはオランダ駐在イギリス軍人で内乱に直接関わることはなかったようです。

ペンズハーストは、シドニー達が富裕でなかったために、ジョンソンが詩を作った時代から大規模に改築されることも建て替えられることもなく、現在まで同じ姿で残り、ジョンソンが見たのとほぼ同じペンズハーストを私は、見ることができたのです。

レスターハウスを建て大借金をした第二代レスター伯は、税金増額回避のために議会政治強化に熱心な一人となり、イギリスの議会政治の発展に貢献した、といえるかもしれません。

ドラマ『ウルフ・ホール』のロケが行われたロング・ギャラリー。トマス・クロムウェル役のマーク・ライアンス
『ウルフ・ホール』の背景となった窓
小姓の控室 (Pages’ Room) 、青いスツールはヴィクトリア女王がインド女帝戴冠時に座った。シンプルですね
17世紀のデイベッド、貝の装飾が素敵。色があせているが元はローズ色とグリーンのダマスク織。色鮮やかだった頃を想像するのも楽しい。
ステュアートルームに飾られたエリザベス・ステュアートとチャールズ (のちのチャールズ1世)の肖像画、ボヘミア女王の座を追われたエリザベス、処刑されたチャールズ。この肖像画が描かれた頃には誰も想像しなかった結末に

参考:Philip Sidney, Penshurst Place and Gardens, 2018, Penshust Place and Jogsaw Disign & Publishing.