ゴシック・リヴァイバル様式で19世紀に増築された棟群

ヒストリックハウス名:アランデル・カースル

所在地域:ウェスト・サセックス

訪問:2025年5月22日

アランデル・カースルは、まるで「イギリス歴史ランド」のような邸宅です。

盛り土されているモット

小高く盛り土されたモットと呼ばれる丘には11世紀に建築された要塞、その周りにはベイリーと呼ばれる棚田のような段が続き、そこには12世紀から17世紀に増築されていった石造りのマナーハウスが建ちます。ベイリーの一番下の段にはヴィクトリア時代に建てられた大小の塔が林立する大規模なゴシック・リヴァイバル様式の館がそびえています。

このようにアランデル・カースルには過去千年の間、それぞれの時代に建てられた建物が今も一緒に残っているのです。ロンドン・オリンピックの開会式では、ダンスなどのパフォーマンスで次々と見せる、というのがありました。アランデルはその「建築版」といえるかもしれません。

これらの建物は全てまとまって丘の上に建ち、丘のふもとに城門があります。城門からゴシック・リヴァイバル様式の館の入り口までは、曲がりくねった急な坂道です。私はアーカイブを訪問するアポを事前にとっていたので、開館前でしたがカートで入り口まで連れて行ってもらえました。一人カートに乗せられて館の入り口まで連れて行ってもらうのは、なんだかとても良い気分でした。

館に入ると石造りのリブ・ヴォールト天井が続く「これでもか」ゴシック・リヴァイバル空間でした。薄暗く、甲冑などが並ぶ玄関ホールに立つと、中世を憧憬しゴシック・リヴァイバルに情熱を燃やした施主の意気込みが伝わってきます。ゴシック・リヴァイバル様式で棟群を建築したのはヴィクトリア時代の当主第15代ノーフォーク公爵ヘンリー(Henry Fitzalan-Howard, 15th Duke of Norfolk, 1847-1917)。 

玄関ホールからつながる廊下、リヴ・ヴォールト天井が続き、等身大の肖像画が左右にある
玄関付近には昔の戦いで使った武器がたくさん展示されている
見事なリヴ・ヴォールト天井の階段ホール、巨大なゴブラン織りのタペストリーはロンドンのノーフォークハウスから運ばれた
窓には三重の尖頭アーチ、尖頭アーチがつかない窓はアランデル・ハウスには無いかもしれません。床には東洋の壺?

迎えにきてくださったアーカイブの方は、大きな鉄の鍵の束をジャラジャラとならしながら、いくつものドアの鍵を開けて閉めて、塔の上階にあるアーカイブまで案内してくださいました。アーカイブで夕方まで資料を拝見したあと、夕方、誰もいなくなった邸宅の中を、じっくりと見学させていただきました。

アランデル・カースル(以下アランデル)は1066年にウィリアム征服王がヘイスティングでイングランド軍と戦っている間、ノルマンディーを守っていたロジャー・ド・モンゴメリー(Roger de Montogomely, d. 1094) に1067年1月3日に与えられました。翌年からロジャーが建築した要塞を基にアランデルは改築増築され今に至っています。

ウィリアム征服王は、要塞を建築することを条件に臣下に各地の土地を与えましたが、アランデルもその一つです。

ロジャーの息子ロバートがヘンリー1世に反抗したことから、アランデルは王室に没収されてヘンリー1世( Henry I, 1068-1135 ) の未亡人アデライザ (Adeliza of Louvain, 1102-1151 ) に与えられ、アデライザと再婚相手ウィリアム・ド・オウビニー(William d’ Aubigny, 1109-1176, 1st Earl of Arundel) の息子ウィリアム(William d’ Aubigny, d. 1193) に承継されて以来、ウィリアムの子孫が現在に至るまで承継しています。アランデル家は、途中で男系が途絶え結婚によりノーフォーク公爵 (Dukes of Norfolk ) 家に引き継がれたため、17世紀半ばからノーフォーク公爵家が当主となりました。

ところがノーフォーク公爵位は16世紀半ばに、当主がヘンリー8世(Henry VIII, 1491-1547) により斬首されて廃絶。 今回の主役はそういった経緯で ノーフォーク家公爵家の嫡子でありながら、ノーフォーク公爵を名乗ることができなかったトマス・ハワードです。

Thomas Howard (1585-1646), 14th Earl of Arundel, トマス・ハワード、第14代アランデル伯爵

前君主エリザベス2世の葬儀、現君主チャールズ3世の戴冠式など王室の儀式を司る儀典長は代々のノーフォーク公爵が務める世襲職です。ということは、ノーフォーク公爵家は、ずっと王室の忠実な臣下であり続けてきたか、というとそうでもないのです。

そうでもない… というのは…

ノーフォーク公爵家は途中で男系が途絶えて一度爵位が廃絶になってから、女系で血脈がつながる子孫に新たに叙爵されているため、初代ノーフォーク公爵は二人います。

始祖というか最初の初代公爵はトマス・モーヴレー(Thomas Mowbray, 1st Duke of Norfolk, 1366-1399) 。トマスはリチャード2世 (Richard II, 1367-1400 ) の親友であったことからノーフォーク公爵に叙爵されたとされます。儀典長の職の初代もこのトマスが務めて以来、断続的ではあるもののノーフォーク公爵家に現代まで引き継がれています。

しかし、ひ孫の第4代ノーフォーク公爵ジョン (John de Mowbray, 4th Duke of Norfolk, 1444-1476) には男子がおらず公爵位は1476年にいったん消滅します。

のちにトマスの娘のマーガレット(Margaret de Mowbray, 1391-1549 ) とロバート・ハワード( Robert Howard, 1385-1436 ) の息子ジョン・ハワード (John Howard, 1425-1485、以下ジョン ) が1483年にリチャード3世 (Richard III, 1452-1485) から改めて初代ノーフォーク公に叙爵されます。ジョンはリチャード3世の忠実な臣下でした。公爵叙爵の同年にジョンはエドワード4世 (Edward IV, 1442-1483) の次男リチャードをロンドン塔に幽閉したとされます。ジョンはリチャード3世と共にボズワースの戦い (Battle of Bosworth, 1485 )で戦死。ここまではノーフォーク公が王家の忠実な臣下だったといえそうです。

続くジョンの息子、第2代ノーフォーク公トマス・ハワード (Thomas Howard, 2nd Duke of Norfolk, 1443-1524 )、ジョンの孫、第3代ノーフォーク公トマス・ハワード(Thomas Howard, 3rd Duke of Norfolk, 1473-1554) はヘンリー8世 (Henry VIII, 1491-1547 )の臣下でした。

臣下ではありましたが、第3代トマスは自分の権力増強を狙って最初はアン・ブリーン (Anne Boleyn, 1501?-1536) 、次にキャサリン・ハワード ( Catherine/ Katherine Howard, 1521?-1542 )と、自分の姪たちをヘンリー8世の元へ結婚相手として送り込みました。しかし、ヘンリーの期待に沿わないどころか不倫などでヘンリーの怒りを買ったことから、トマスは死刑を宣告されます。(アン、キャサリンは共に死刑)

しかし、処刑直前にヘンリー8世が亡くなり、トマスは九死に一生を得ます。一方、トマスの息子サリー伯ヘンリー・ハワード (Henry Howard, , Earl of Surrey, 1517-1547 ) は、ヘンリー8世の反感を買い処刑されています。

そして、ヘンリーの息子、第4代ノーフォーク公トマス・ハワード (Thomas Howard, 4th Duke of Norfolk, 1536-1572) は、スコットランド女王メアリー ( Mary Stuart, 1542-1587) との結婚を画策してエリザベス1世の廃位を図ったとして、エリザベス1世により処刑され ノーフォーク公位は剥奪されてしまいます。

君主の忠実な臣下だったとは、とてもいえない… 有様でした。

第4代トマスの息子フィリップ(Philip Howard, Earl of Arundel, 1557-1595、以下フィリップ ) の母親は第12代アランデル伯爵ヘンリー・フィッツアラン(Henry FitzAlan, 12th Earl of Arundel, 1512-1580 、以下ヘンリー) の娘、メアリー・フィッツアラン (Mary FitzAlan, 1540-1557 ) でした。誕生直後に母親は亡くなり、フィリップは修道院に預けられ、前述の父トマスはフィリップが15歳の時に処刑されました。

ヘンリー・フィッツアランには成人まで生きた男子がいなかったことから、アランデル伯爵位は、メアリーの姉ジェイン( Jane FitzAlan, 1537-78 ) の死後、21歳になったフィリップが継承したものの、フィリップは父親の処刑で消滅してしまったノーフォーク公位は承継できませんでした。ノーフォーク公の嫡子でありながらも、母系からのアランデル伯爵の位階しか名乗れなかったのです。

フィリップはケンブリッジ大学、セント・ジョンズ・コレッジで学んだあと宮廷に仕え、一時はエリザベス1世のお気に入りの一人でした。

しかしアランデル家は伝統的にカトリックでフィリップの妻アン(Anne Dacre, Countess of Arundel, 1557-1630 )もカトリック。イギリス国教徒でなくカトリックであることは当時、相当に問題視されており1586年にフィリップにはカトリック教徒であることを理由に多額の罰金を課され、ロンドン塔に収監されてしまいました。そして1589年アルマダ海戦中、スペインの勝利を祈った(らしい)という罪で死刑宣告され、全ての爵位と資産を没収されてしまいます。ひどいですね。

エリザベス1世は死刑宣告をしたものの、死刑執行書になかなか署名せず、フィリップはロンドン塔でいつ「その日」がくるのかを知らされない「死ぬ」恐怖をかかえ収監され続けました。死刑が決まってから6年後の1595年、フィリップは獄死し、ロンドン塔に埋葬されました。のちにジェイムズ1世の許可によりフィリップはアランデル・カースルのチャペルに改葬されました。

フィッツアラン・チャペル、カトリックの儀式を行うように建築されている、一般の信徒には公開されていない自宅内チャペル

フィリップとアンの息子、トマス・ハワード (Thomas Howard, later 14th Earl of Arundel, 1585-1646 ) は、1歳の時に父が収監され、4歳のときには父の全爵位と資産が没収されてしまったため、本来であればノーフォーク公爵家、アランデル伯爵家の後継であるのにもかかわらず、爵位も資産も全く持たない一市民として育つことになりました。

母アンはトマスに、本来生まれながらに持つ公爵と伯爵の社会的地位と権利を、とくとくと聞かせ続け、トマスは青年になるときには自分が生まれながらにもつ社会的地位、権利、資産の詳細をよく知っていたことが記録に残ります。

トマスは裕福なシュールズベリー伯爵の女相続人アルセア・タルボー(Althea Talbot, 1585-1654 ) と結婚しました。トマスはイタリアから大量の絵画や彫刻を買付たことから「蒐集家伯」と呼ばれますが、その買付はアルセアの資金力があってからこそでした。トマスの時代にノーフォーク公爵位が復権することはありませんでしたが、チャールズ1世はノーフォーク公爵家、アランデル家の資産の多くをトマスに返却し、アランデル伯を名乗ることを許し、トマスはノーフォーク公家の世襲職だった儀典長の職位も与えられました。さらにトマスはチャールズ1世の廷臣として外交、軍事をサポートしました。たびたびノーフォーク公爵位の復権を望んだものの、チャールズ1世は公爵位についてはつれない態度を取り続けました。

イギリス国内が内戦を前に不安定になりつつあった1641年には、トマスはイングランドを離れてイタリアへ移住。イタリアで一生を終えました。

トマスとアルセアの息子、ヘンリー(Henry Frederick Howard, 15th Earl of Arundel, 1608-1652 ) の時代はイギリス内乱の真っ最中でノーフォーク公爵位の復活には至りませんでしたが、 ヘンリーの息子ヘンリー (Henry Howard, 6th Duke of Norfolk )が1660年王政復古後に上院に兄トマス・ハワード(Tomas Howard, later 5th Duke of Norfolk, 1627-1677 ) へのノーフォーク公爵位の復権の申し立てをしたところ認められ、晴れてノーフォーク公爵位は復活しました。兄トマスには精神疾患があったとされ、ノーフォーク公家の実務は弟ヘンリーが行っていました。

第6代ノーフォーク公ヘンリーは、祖父トマスが集めたローマ・ギリシャの彫刻や碑文が刻まれたプレートなどの膨大なコレクションをオックスフォード大学に寄贈。これらは今、オックスフォード、アシュモリアン博物館で、「アランデル・コレクション」として公開されていて一部はオンラインで見ることもできます。ノーフォーク公の嫡子であってもノーフォーク公を名乗ることができなかったトマスですが、「アランデル・コレクション」として今もその名を残しています。

バロンズ・ホール、奥行き41メートル、天井高16メートル、ペンズハースト(当サイト参照)を参考にして建築したそうです
ダイニング・ルーム、ここも徹底的にゴシック・リヴァイバル
肖像画と親族の紋章に囲まれるドローイング・ルーム(居間)
ベッドルームの一つ、窓はもちろんゴシック・リヴァイバル
肖像画がない部屋はおそらく無い
ライブラリー、ここで現地にお住まいの日本人のガイドの方二人とお会いしました。
ライブラリーの中にあるヌック的コーナー、小さなチェアのデザインがかわいい、ティーセットが置かれているミニテーブルのデザインが素敵。ここなら落ち着けそう

参考:John Martin Robinson, Arundel Castle A Guide