ハウスの南正面、16-17世紀ではキッチン棟だった

ヒストリックハウス名:ホルデンビー

所在地域:ノーザンプトン

訪問:2025年8月25日

5月に続き、8月後半から9月にかけてイギリスへ行ってきました。(2025年)

訪問先で見る人影はまばら。さらにこの時期のよいところは、涼しく過ごしやいこと。

ノーザンプトンにあるホルデンビーはオープン日が限られていて、なかなか行けなかった館。今回やっと訪問することができました!

16世紀後半に、エリザベス1世を迎えるために建てられた壮麗なカントリー・ハウスはプロディジー(prodigy)・ハウスと呼ばれました。日本語では「偉観の館」と訳されることもあります。その中で最大規模なのがホルデンビーです。他にプロデジー・ハウスといえばセオバルズ(Theobalds Palace, 1585) 、バーリーハウス(Burghley House, 1587) があります。

ホルデンビーを建築したのは、クリストファー・ハットン (Christopher Hatton, 1540-1591、以下ハットン、当サイト・カービー・ホール参照)。長身で甘いマスク、ダンスが上手なハットンはエリザベス1世のお気に入りの1人でした。

エリザベス1世は、容姿端麗な男性を重用しましたが、彼らはハンサムなだけでなくスポーツ、ダンス、詩作などにも長け、今でいえば韓国のアイドル男性グループBTSのメンバーのような感じだったかもしれません。

エリザベスBTSの筆頭は、当初はロバート・ダドリー (Robert Dudley, 1st Earl of Leicester, 1532-1588)。ダドリー死後は、ロバート・デバリュー (Robert Devereux, 2nd Earl of Essex, 1565-1601) でした。

彼らの容姿およびファッションを見ることができる肖像画は興味深いものです。

ほかにはフィリップ・シドニー (Philip Sidney, 1554-1586) 、フィリップ・ハワード(Philip Howard, Earl of Arundel, 1557-1595)、ウィリアム・キャベンディッシュ(William Cavendish, 1552-1626) らがエリザベスBTSとして挙げられます。

ハットンは身なりにこだわる美意識の高い人物だったように思えます。きっちり整えられたあごひげを繊細なレースのスタンドカラーが囲むハットンの肖像画。複雑なレース模様の美しさ…

レースへのこだわりが、ホルデンビーの建築にもきっと現れているはず!

… と鼻息あらく館の中に入ったのですが… なんと現在の館はハットンが建てた館のほんの一部でキッチン棟を改築したものでした。ハットンの建てた館は、清教徒革命の戦乱時と戦後に破壊されてしまったと… とっても残念。しかし、元の館の一部の遺構は残されていました。

ハットンが建てた館の一部、館への出入り口の一つだった
建築完了の1583年とある、曲線と直線の組み合わせが美しい装飾

牧草地にぽつんと立つ遺構で、ハットンの美意識を偲びました。

Charles I (1600-1649), チャールズ1世

エリザベスI世を迎えるために、予算度外視で多額の借金をしてハットンが建てた館はホルデンビー宮殿 (Holdenby Palace )と呼ばれました。ハットンはカービー・ホール(当サイト参照)も予算度外視、借金で理想を形にしています。予算度外視で二つの館(しかも一つは宮殿レベル)を工事中断とならず完成できた、というのもすごいです。

エリザベス1世のBTSだから借金も可能だったのか…

1583年に完成した当時、ホルデンビーには二つの中庭 (Courtyard ) があり、123枚の大きなガラス窓(当時はガラスは超贅沢品)がある館の周りには広大なディアパーク(鹿狩りをするフィールド)が広がっていました。ハットンの新築の館は、エリザベス1世の臣下たちの中で、かなりのビッグニュースだったことでしょう。

ハットンの頑張りの甲斐あってエリザベス1世はハットンの存命中、ホルデンビーを一度だけ訪問しました。

ハットン、よかったね… そしてその9年後に膨大な借金を残し、ハットンは32歳で亡くなりました。

しかし、残されたハットンの家族は借金を払うことができず、1605年にホルデンビーを王室に売却しました。売却時の君主はジェイムズ1世 (James I, 1566-1625 ) 。

ジェイムズ1世はホルデンビーにたびたび滞在し、ホルデンビーは真の意味で「宮殿」になったわけですが、ジェイムズ1世の息子チャールズ1世の時代になると「宮殿」は「牢獄」に変わります。

清教徒革命中、1647年に議会派に捕えられたチャールズ1世は、5ヶ月間ホルデンビーに幽閉されたのです。とはいえ120人もの召使が仕えて外出禁止でも庭の散歩は許され、監視つきながら快適な日々を過ごしていたようです。

チャールズが好んで歩いた庭の小道は、「King Charles’ Walk」(チャールズ王の散歩道)として今も残ります。誰もいない静かな小道を歩いていると、ふとチャールズが隣にいるような気がしました。

King CharlesI’ s walk

ホルデンビーに幽閉されていたチャールズは議会派に抗戦する計画を立て、脱出を企てていました。しかし議会派は、脱走する気満々のチャールズを同じ場所に留めておきませんでした。

6月4日、前触れなくチャールズ1世を連行するためにジョイス大尉 (George Joyce, b. 1618) がやってきました。「なぜだ?」と尋ねるチャールズにジョイスは連れてきたニューモデル軍(議会派)を黙って指差しました。議会派軍は、国王を連行し去っていきました。

ホルデンビーでのチャールズの優雅な幽閉生活は終わりました。

ジョイス大尉がチャールズを連行しにやってきた時を描いた絵があります。ジョイス大尉は上下淡いグレーのスーツに赤いマントを羽織った姿。頬にたるみが見えるジョイス、とても30歳には見えません。かわいいナイトキャップをかぶったチャールズはブルーグレーのガウンを着ています。ガウンの下からは白いパフスリーブの寝間着がのぞき、足元は赤いスリッパ。上から目線で連行をチャールズに宣告するジョイス、椅子にかけているチャールズは余裕な態度で「なんでだ?」と応じる。

まるでインスタ。写実的な絵画です。

チャールズがジョイスに連行を告知された時、チャールズが座っていた場所
チャールズが連行告知を受けた場所は、いまは牧草地

連行されたあと、チャールズはホルデンビーからニューマーケット、オーツランド、ハンプトン・コート、そしてワイト島のキャリスブルック・カースル(当サイト参照)とあちこちで幽閉されたのち、1949年1月、ロンドン、ホワイトホールで死刑となりました。

館の南側は緩やかな斜面。ここからディアパークにつながっていた

参考:James Lowther, Holdenby