Grimsthrope Castle  グリムソープ・カースル:王党派の鑑、ロバート・バーティ、初代リンジー伯爵

ヒストリックハウス名:グリムソープ・カースル

所在地域:リンカーンシャー

訪問:2025年9月1日

館の北側は1680年代にジョン・ヴァンブラ(John Vanbrugh, 1664-1726)により復古古典主義様式に増改築された。左右対称で屋上にはローマ風の彫像が並ぶ

訪れたのは夏休みが終わった9月1日、月曜日の午前中。到着すると駐車場は閑散、ゲートに行くと訪問者は私一人で、ひっそりと静か。ヨークとピータバラの間にあるグリムソープはすでに秋の雰囲気。

入り口はこじんまりとした印象、柱のデザインがユニーク
館の南側は、エリザベス時代のまま。写真右側の四角い部分は一番古い「ジョン王のタワー」12-13世紀に建てられたそうです

冷んやりとした風、落ち葉が舞い、青空は高く、気持ちのよい朝でした。私の前に広がるのは、どこまでも続く広い庭園。ハウスが開く11時まで散歩しました。

誰もいないローズガーデンや並木道、森林。散歩道は整備されていて、歩きやすい。清々しい空気の中、身体が浄化されていくよう。しばらくすると、数人の方が遠くに見えました。

11時になったので、ハウスの中へ。写真OKが嬉しい。11時半からのハウスツアーの参加者は私一人。じっくりとお話しを聞き、質問することができました。

邸宅には、現在、90代の女男爵ジェーンさん(Jane Heathcote‑Drummond‑Willoughby, the 28th Baroness Willoughby de Eresby)が一人でお住まいとのことです。住み込みのヘルパーさんはいるものの、この邸宅に一人でお住まいとは!

ジェーンさんは、故エリザベス2世女王の戴冠式で、女王の付き添い役を務め、付き添い役6人のうち最年少でした。戴冠式はテレビで中継され、6人の女性達は大変な注目を集めたそうです。

ジェーンさんの唯一の兄弟は20代の時にヨット事故で亡くなり子供はおらず、ジェーンさんは未婚ということで、男爵位の後継者はいません。邸宅は数十年前からトラストにより運営され、後継者がいなくとも運営は変わらず続くとのことです。

今回はジェーンさんの祖先で清教徒革命中、一貫してチャールズ1世に忠実だった初代リンジー伯爵ロバート・バーティ(以下ロバート)について書きます。

Robert Bertie (1582-1642)、ロバート・バーティ、初代リンジー伯爵

ロバート・バーティ、肖像画に「内乱で戦死」と明記されている

1601年に第14代ウィロビー・ド・エレスビー男爵 (14th Baron Willoughby de Eresby) となったロバートはジェイムズ1世とその妻アン・オブ・デンマークをグリムソープに迎え、その後1612年にはアン・オブ・デンマークの兄弟であるクリスチャン4世 (King Christian IV, 1577-1648) を大陸でサポートしました。

1618年にはクリスチャン4世のもとオランダで戦い、その後、ジェイムズ1世 ( James I, 1566-1625) はロバートを国務大官のひとつで世襲職である侍従長官(Lord Great Chamberlain ) に任命しました。

さらにロバートは1626年にリンジー伯爵に叙爵され、ガーター騎士、名誉職の一つである王室所有のヘイヴァリング・カースル ( Havering Castle) の城主に任命されました。このとき、ロバートはグリムソープを息子モンタギューに譲っています。

ロバートは1628年-1635年の間、チャールズ1世の艦隊を指揮しました。チャールズ1世は1630年、エディンバラでの戴冠式に向かう途中にグリムソープに滞在し、内乱時にも再び滞在しています。

ヴァン・ダイクによるチャールズ1世一家。
実際はヴァン・ダイクの弟子たちが殆ど描き、ダイクはほんのちょっと筆入れしただけとのこと。右上の天使はチャールズを注視しているように見える、
チャールズ1世の二人の子供はジェイムズ(後のジェイムズ2世)とメアリー。

内乱の間、ロバートは一貫して王党派。1642年10月23日のエッジヒルの戦い (Battle of Edge Hill) ではチャールズから総司令官に任命されたロバートですが国王の甥ルパート (Prince Rupert, 1619-1682) と戦術について意見が合わず、ロバートは総司令官を辞退して近衛歩兵連隊を指揮、しかしロバートと二人の息子はこの戦いで死亡。

エッジヒルで生き延びたロバートの息子モンタギュー・バーティ(Montagu Bertie, 2nd Earl of Lindsey, 1608-1666) が第2代伯爵を承継、しかしモンタギューは議会派によりウォリック・カースル(本サイト参照)に収監されてしまいます。

18ヶ月後に釈放されたモンタギューは領地の森林を伐採、売却した資金を提供し王軍を支援します。

モンタギューは一貫してチャールズ1世に忠誠でチャールズの処刑(1649) 後、遺体の埋葬に立ち会った4人のうちの1人でした。王党派の立場を変えなかったモンタギューは議会から647. 13ポンドの罰金を課されただけでなく、グリムソープに住み続けることに対し300ポンドの科料を毎年課されました。自分の家に住み続けているだけなのに… 

チャールズ1世が処刑され、共和政になってもモンタギューは王党派でした。

共和政は約10年で終わり1660年王政復古。チャールズ2世 (Charles II, 1630-1685 )は1661年4月23日の戴冠式の前夜、グリムソープに宿泊しました。そのときにチャールズが寝たベッドは今もグリムソープに保管されています。

そしてチャールズ2世の戴冠式がウェストミンスター寺院で挙行されました。

共和政の間、罰金と極刑への終わりの見えないストレスを耐え抜いた侍従長官モンタギューは53歳。玉座で王冠を被る30歳のチャールズを静かに見守ります。

その292年後、1953年6月2日、同じウェストミンスター寺院で挙行されたエリザベス2世の戴冠式で、モンタギューの子孫ジェーンさんは女王の付き添い役を務めました。

王室と貴族の関係は数百年に及ぶ… ということがわかります。

こじんまりとした入り口を入ると高く吹き抜けるエントランスホール。劇的な展開が得意なヴァンブラらしい建築、舞台背景のようです。恩恵をもたらしてくれた君主の彫像風の肖像画が並んでいる。
ステート・ダイニングルーム、最後にここで食事したのは皇太子時代のチャールズ3世とカミラ、ウィリアム(現皇太子)で20年以上前でした。奥の紋章のスクリーンは戴冠式で使われたもの。
ジェイムズ1世の部屋
チャイニーズ・ドローイング・ルーム、居心地よさそうですが、北向きで寒いのでずっと使われていないとのこと
ジョージ4世戴冠式の宴会に置かれた王座。結局ジョージ4世は座らなかった。大侍従長に下賜された
こちらも王室から下賜されたウェストミンスター宮殿にあった時計。侍従長官の職は無給ですが、このように家具などが下賜される。
日本製の漆塗りの箱。イガラシ・シンサイという漆器職人が作ったと書かれている。
現バロネスの祖母、ナンシー・アスター (Nancy Astor, 1879-1964) の娘、ナンシー・フィリス(Nancy Phyllis, 1909-1075) 。ナンシー・アスターはアメリカ人でありながらイギリス初の女性議員となった(1919)

参考:Tim Knox, Grimsthorpe Castle, 1996