ヒストリックハウス名:メルバーン・ホール
所在地域:ダービーシャー(Derbyshire )
訪問:2025年8月26日

John Coke (1563-1644)、ジョン・クック
クックは、チャールズ1世 (Charles I, 1600-49, 以下チャールズ)が議会を開かず統治を行った親政期間(1629-1640) に国務長官を務めました。クックはチャールズの外交や国政に関する意向を枢密院メンバーに書き送り、政策を実行に移すまでを監督するいわばチャールズの右腕でした。クックの文書は数多く残り、マメな仕事ぶりがわかります。
弁護士の次男に生まれ、自分で身を立てる必要があったクックはケンブリッジ大学を修了後、エリザベス1世 (Elizabeth I, 1533-1603) のお気に入りの廷臣エセックス伯 (Robert Devereux, 2nd Earl of Essex, 1565-1601 ) に仕え、実務力を養いました。
1621年、クックはウォリックから国会議員に選出され58歳で国政に参加、1625年に国務長官に任命されました。チャールズの親政開始時に国務長官に再び任命されたクックは、親政が終わるまでその職にありました。
クックは1629年66歳の時、メルバーン・ホール(以下メルバーン)を隠居用の家として購入しましたが、ちょうどその頃にチャールズの親政が始まりました。
ロンドンを離れることが難しくなったクックですが、メルバーンの改築を延期することはせず、大工、石工、鍛治職人、配管職人、石膏職人、石材調達人らそれぞれに緻密な指示を文書で送ってリモートでリフォームを進めました。
チャールズと議会が対立し内乱が始まると、クックの長男ジョン・クック (John Coke The Younger, 1607-1650、以下ジョン)は議会側に、次男のトマス・クック ( Thomas Coke, 1614-1656、以下トマス)はクックと共に王側につきました。
内乱が進み議会軍が優勢になると、こだわって改築したメルバーンは議会軍に占拠されて住むことができなくなり、クックはトッテンハムの家で亡くなりました。ジョンは1650年に嫡子を残さず亡くなり、トマスは1655年に2,200ポンドの罰金を議会に支払ってメルバーンを取り戻しますが、翌年42歳で死亡。
メルバーンはその後、クックの直系子孫に継承されていきますが、玄孫の代では男系子孫が絶え女子シャーロット( Charlotte Coke ) が継承し、シャーロットの夫の姓であるラム(Lamb)に子孫の名は変わりました。
シャーロットの息子ペニストン・ラム(Peniston Lamb, 1st Viscoutn Melbourne, 1740-1828) はメルバーン子爵に叙爵され、ペニストンの息子ウィリアム (William Lamb, 2nd Viscount Melbourne, 1779ー1848) は即位まもない時期のヴィクトリア女王 (Victoria, 1819-1901) をサポートした「メルバーン首相」(1834, 1835-1841) として知られます。
オーストラリアの都市名「メルボルン」はメルバーン首相の名前からつけられたいうことで、この家に由来しているといえるでしょう。
メルバーン首相には嫡子がおらず妹のエミリー (Emily Lamb, 1787-1860) が継承し、のちにエミリーの孫娘アマベル (Amabel Cowper, 1846-1906) が継承したことから現在メルバーンの当主はアマベルの夫ウォルター・カー(Walter Kerr, 1839-1927) の苗字を引き継いでいるラルフ・カー(Ralph Kerr, b. 1957) です。
苗字は違いますが、メルバーンに住むのは今もジョン・クックの直系子孫です。
クックがこだわって改築したメルバーン。ダイニング・ルームは、ほぼ当時のままです。クックは住むことができなかったけれど、子孫はその改築の恩恵を受けています。17世紀から残る壁や床は、現代でも気持ちよく暮らせるようにメンテナンスされていて、住んでみたいと思える室内でした。残念ながら邸宅内は撮影禁止で、写真はありません。


参考:Philip Heath, Melbourne Hall, 2006.
