Wilton House ,The Triumphal Arch, 第16代ローマ皇帝マルクス・アウレリアス帝の騎馬像

ヒストリックハウス名:ウィルトンハウス

所在地域:イギリス、ウィルトシャー

訪問:2015年8月4日、2016年8月30日

ウィルトン・ハウスPart1では、ヘンリー8世の時代に、ハウスを最初に建てたWilliam Herbert, 1st Earl of Pembroke (1501-1570)、初代ペンブルック伯爵ウィリアム・ハーバートについて書きました。今回は、初代伯爵の孫で、第4代伯爵のPhilip Herbert(1584-1650)の時代に増築工事に関わった、イギリス最初の建築家として知られる建築家、イニゴ・ジョーンズについて主に書きます。

Inigo Johns (1573-1652)

イニゴ・ジョーンズ

イニゴは、おそらく10代後半から、イタリアに描画の修行に行き、その技量が認められて、デンマーク国王クリスチャン4世の宮廷画家として、20代を過ごします。そして、1603年にイギリス国王になったジェイムズ1世と王妃アン・オブ・デンマークは、クリスチャン4世(王妃アンの兄)から紹介され、イニゴをイギリス王室へ招併します。

アン王妃は、仮面劇が大好きで自分が出演することもしばしば、宴会を開く時には必ず仮面劇が上演されました。この王室主催仮面劇の舞台装置と衣装のデザインが、イニゴの仕事でした。舞台装置、衣装こそが劇のクオリティを決めるものであるというイニゴの信条のもと、創り出される背景や衣装、仮面は芸術的で美しく、王族を含め、人々の称賛の的でした。

一方、ウィルトンハウスは、ジェイムズ一世の時代には、芸術文化の中心的カントリーハウスになっていました。

というのも、第2代伯爵ヘンリー(1534-1601)の妻メアリーは、散文作品「アルカディア」を書いたフィリップ・シドニーの妹で、メアリー自身も文芸への理解が深く、当時の文化人は、ウィルトンに集まり芸術談義に花を咲かせていました。フィリップはエリザベス女王の時代に女王の結婚(カトリック国フランスのアンジュー公フランソワとの)に反対する長文の手紙を送り、女王の機嫌を損ねたことで宮廷から遠ざかりウィルトンハウスに長期滞在していました。「アルカディア」はウィルトンハウス滞在時に書かれています。

そして、第2代伯爵ヘンリーとメアリーも演劇好きで、シェイクスピア、Thomas Nashe、Ben Johnsonなどの作品を上演する自前の劇団も持ち、ハウス内に舞台を設け、たびたび上演していました。

ハウスの当主は1600年に第3代伯爵ウィリアム・ハーバート(1580-1630)に代わりジェイムズ1世は、即位した年にウィルトンを訪問、その後も3度訪問しています。

ウィリアムには嫡子が無く、弟のフィリップ・ハーバート(1584-1650)が1630年に第4代伯爵となります。フィリップはチャールズ1世の宮内長官で宮廷の中でも、王に非常に近い立場だったことから、チャールズ1世の王妃になるアンリエッタ・マリア

(フランス王アンリ4世の末娘)をフランスへ迎えに行く大役を任されます。フランスに赴いたフィリップは、アンリエッタ・マリアの母マリー・ドゥ・メディチ(トスカナ大公フランシスコ・ドゥ・メディチの娘)が新築した華麗なリュクサンブール宮殿に滞在します。マリー・ドゥ・メディチの美意識で創られた豪華な内装に、フィリップは感動し、この時の経験が、後のウィルトンのステートルームの内装に生かされます。

イニゴは、最初は仮面劇の舞台装置や衣装を作っていたのですが、王室から

ついでにという感じで、建築のデザインも頼まれ、まずはアン・オブ・デンマークのためにクイーンズハウス(グリニッジ)をデザインします。舞台背景や大道具には、

建物もしばしば含まれていたので、実際の建物もイニゴに任せましょうよ、とアン王妃が思いついたのでした。

イニゴがデザインした、すっきりとした印象のクイーンズハウスは、テューダー時代の建築とは違う、洗練された軽やかな印象を与え、王族を大いに喜ばせます。

以後、イニゴは王室お抱え「建築家」として、ホワイトホール宮殿、グリニッジ宮殿、セントポール大寺院、サマセットハウスなど重要なプロジェクトを次から次へと任され、また毎年、年2回上演される王家主催の仮面劇の準備はそのまま継続しており、イニゴは大忙しとなります。

父ジェイムズ1世が気に入っていたウィルトンは、チャールズ1世の第一のお気に入りの場所に。清教徒革命で、物騒極まりないロンドンから離れているのも好都合でした。チャールズ1世は煩雑にウィルトンを訪問し、さりげなくロイヤルアパートメント(王室専用の部屋からなる棟)があったらいいのにね、というような話を遠回しに、しかし、何度もするのでした。

そこで、フィリップは、ロイヤルアパートメントとして南棟を新築することを決意、

チャールズ1世は、建築家はイニゴがいいよ、という感じで勧めてきたのですが、イニゴは、他のプロジェクトで手一杯。

そのうちチャールズ1世がどういうわけかストーンヘンジに強い興味をもち、ストーンヘンジの調査までイニゴに任せられます。イニゴは目が回る忙しさで、とてもウィルトンに関わっている時間がないようなので、イニゴには、総監督になってもらい、実務は天才建築家と言われたMonsieur Solomo de Casが行っていました。

チャールズ1世のための南棟建築は、1647年初頭に始まったのですが、これは実に微妙なタイミングでした。

清教徒革命の議会VSチャールズ1世の動きは1645年頃に本格化し、チャールズ1世はオリヴァー・クロムウェル率いる軍に、1645年に捕えられ幽閉されたのです。

しかし、戦いは一進一退を繰り返し、1646年から1647年の夏にかけては、和解もありうるかも・・・という休戦時期だったのでした。

そこで、フィリップは、意を決し建設を開始したのです。

皮肉なことに、イニゴの王室の仕事は、清教徒革命勃発ですべてストップとなり、ウィルトンに関われるようになりました。

ウィルトンの建築、内装には、フィリップのフランスでのリュクサンブール滞在経験が華麗に反映されます。特に内装には、これまでのイギリスでは見られなかった、デコラティブな額縁に囲まれた壁画、繊細なコーニス、腰壁にコンソールブラケットをつける手法など、斬新かつ芸術的手法が取り入れられ、タペストリーと石膏細工のイギリス式的内装を格段に進化させます。

その代表例がハンティング・ルームとシングル・キュービックルーム、ダブル・キュービックルームです。

ハンティング・ルームでは、壁を上下に分割し、統一された額縁を施した壁面に、精密なハンティングのシーンが描かれています。額縁、コーニスは白と金で統一され、繊細な石膏細工がその間を飾ります。これらの内装デザインと描画は、エドワード・ピアース(1598-1658)によるものです。

シングル・キュービックルームでは、フィリップ・シドニーの「アルカディア」の詩的なシーンが天井に劇的に描かれており、描画とインテリアの独創的な融合となっています。天井画は、ピアース自身が描いており、彼が芸術的才能をもった内装デザイナーだったことがわかります。

ロイヤルアバートメントのハイライト、キングス・グレートルーム(現ダブル・キュービックルーム)では、ヴァン・ダイク(フィリップは、ヴァン・ダイクのパトロン)が描いた第4代伯爵一家の巨大なファミリー肖像壁画、イニゴが設計したギリシア神話のペルセウスの冒険が描かれた天井(描画はEmmanuel de Griz)に圧倒されます。

ルーベンスの天井画で知られるロンドンのバンケティング・ハウス(現存)は、同じ手法でイニゴが設計しました。

チャールズ1世のために、イニゴの顔を立てながら作られた南棟ですが、チャールズ1世は1649年に処刑され、フィリップも翌年1650年に死亡、2人とも残念ながら南棟の完成を見ることはありませんでした。イニゴも1652年に死亡。

南棟は第5代伯爵フィリップが建築家ジョン・ウェブと共に完成させます。

初代伯爵が、エドワード6世の紋章を一番目立つエントランスの上に掘り込んだのとは対照的にチャールズ1世のために建てられたのに、チャールズ1世の紋章は建物の内外どこにもありません。清教徒革命で揺れる中、王党派フィリップのアンビバレントな気持ちが見えるようです。

第4代、第5代のもと、美しく仕上げられたウィルトンは、第6代、第7代の「何もしない荒廃へ向かう」時代が続いた後、第8代、第9代で大量の美術品のコレクションが運び込まれ、第11代でまた大きく姿を変えることになります。

次回は、第11代伯爵ジョージ・ハーバートと建築家ジェイムズ・ワイアットについて書きますので、お楽しみに!

東棟をガーデンから臨む、この東棟にエドワード6世の紋章が彫られています。南棟は向かって左手、建物全体は中庭を囲んで正方形。

参考:

Charles Philips ,Palaces & Stately Houses of Britain & Ireland,原書房 (2014)

John Martin Robinson, WILTON HOUSE ,Rizzoli International Publications(2021)

森護「英国王室史話」上下、中央文庫 (2010)