ヒストリックハウス名:アボッツフォード

所在地域:スコットランド

訪問:2023年7月3日

ガーデンから臨むアボッツフォード邸、右側に中世風のタワーが建ち、スコットランド国旗がはためく

19世紀のイギリスでは、中世回帰の風潮がありました。

中世への憧れから、ゴシック・リヴァイバルと呼ばれる建築様式で多くの家や、教会、公的な建物が建てられ、また、その家の中は中世風の内装で飾られ、中世風の家具が置かれました。中世風の舞踏会、大規模な馬上槍試合など、社交面にも中世志向が色濃く反映されたようです。

そのような中世への憧れが生まれたのは、ウォルター・スコットの著作がきっかけであった、という見方もあるようです。

アボッツフォードは、ウォルター・スコットが購入し、自身の好みを反映させた、スコットのこだわりが、ぎゅうぎゅうに詰まった「中世風の家」です。

Sir Walter Scott (1771-1832)、ウォルター・スコット

スコットは、法律家の父と、エディンバラ大学の薬学教授の娘である母のもとに1771年、エディンバラで生まれました。2歳の時にポリオに罹ったため、療養のため、イングランドとの国境に近いボーダーズ地方にある、ロクスバラシャーの父方祖父の農場に送られます。

そして、スコットはロクスバラシャー (Roxburghshire)で、エルデンの丘 (Elden Hills)の風景を臨む祖父の農場で、ボーダーズ地方の言い伝えや民謡を、祖父からおしえられ、愛着を持ちました。

ボーダーズ地方での経験は、後の創作の源流となりました。スコットと親交があったアメリカ人作家ワシントン・アーヴィング (1783-1859)は、「スコットの心は、周囲に存在するあらゆるものに関連した伝説的な物語で満ち溢れているのだ。」と述べています。(アーヴィング、『ウォルター・スコット邸訪問記』、岩波、2006年)

スコットは、エディンバラ大学で、法律を勉強し、1799年には、ボーダーズ地方のセルカークシャー (Selkirkshire) の判事補佐に任命されます。スコットの業務は、地域の歴史の調査を行うことで、エディンバラに住居をもちながらも、セルカークシャーのラスウェイド(Lasswade)にコテージを借り、二つの拠点を行き来する生活を送りました。

1802年には、セルカークのアシェステル (Ashestial)に、さらに大きなコテージを借りました。この頃から、スコットは著述を初めます。The Lay of the Last Minstrel (1805), Marmion (1808), The Lady of the Lake (1810)は、アシェステルで書かれています。

これらの著作が出版されたことから、スコットを訪ねる人が増え、アシェステルのコテージが手狭になり、スコットはボーダーズ地域に自分の家を持つことを決意します。そして、1811年にツイード川沿いに建つ、小さなファームハウス「カートレーホール」(Cartleyhole)を、購入したのです。

スコットは購入後、すぐに家の名前を、「アボッツフォード」に改名します。「カートレーホール」は、近隣のメルローズ・アビー(修道院、当時、すでに廃墟で観光地となっており、現在でもボーダーズ地域の有名観光地)の管理下にあった時期がありました。スコットは、そのような家の歴史にちなんでアボッツ(僧)にフォード(浅瀬)を組み合わせて、名付けたのです。

「アボッツフォード」は、宗教的な重みの中にも、なにか温かさが感じられる魅力ある名前だと、私は思います。

スコットは、小説の販路拡大に、エージェントを採用した初の作家だと言われます。作品の魅力に、エージェントの力が加わり、スコットの作品の読者は、世の中に広がっていきました。

最初の3つの小説、 Waverley (1814), Guy Manneing (1815), The Antiquary (1816)はどれも大きな成功をおさめます。スコットランド独立を目指したボニー・プリンス・チャーリーの時代を描いたWaverleyは、私も大好きな作品で、目の前にスコットランドの風景が拡がっていくような物語を楽しみました。Waverleyは、発表された当時、スコットの名前では発表されず、作者不明とされながらも、誰もがスコットが作者であると知っていたそうです。

スコットは、著作の成功で順調に収入が増え、購入当初110エーカーだった土地を、1200エーカーまで買い増します。

そして、アボッツフォードの館は、1817年から1819年と、1822年から1825年の二度に渡り増改築され、小さな農家から、中世風のお屋敷に生まれ変わったのです。

最初の改築が始まった1817年に、前述のアメリカ人作家アーヴィングが、アボッツフォードを訪れ、その思い出を、『クレヨンの雑録集』(Crayon Miscellanies, 1835)の中の「ウォルター・スコット邸訪問記」(原題 Abbotsford ) にまとめています。この訪問記では、アボッツフォードでのスコットの生活や、邸宅の様子の詳細が、スコットへの尊敬と愛情に溢れる文調で、ユーモアも交えて書かれています。

アボッツフォードを手がけた建築家は、ロンドンを拠点とし、ゴシック・リヴァイバル様式のデザインでよく知られるウィリアム・アトキンソン(William Atkinson, 1773-1839)です。アトキンソンが、大まかなデザインを決め、地元の石工職人、ジョン・スミス・オブ・ダーニック(John Smith of Darnick, ?)が実際の施工を担当しました。

アボッツフォードは、ゴシック風味が強いスコティッシュ・バロニアル様式といったように、見受けます。

スコットは、古物愛好・収集家でもありました。

エディンバラのオールド・トルブース牢獄の鍵、牢獄のドア、牢獄の内装の一部、カローデンの戦い(1746年)で使われた刀剣二本、カローデン戦場に落ちていたオーツケーキ(クッキーのようなスコットランドの食品)、ウォータールーの戦いの遺物、スコットランドの英雄ロバート・ブルースの骸骨モデル、スコットランド女王メアリー・ステュアートのドレスの切れ端などなど。

スコットは、ウェリントン公が1815年に勝利をおさめた日のわずか6週間後に、ウオータールーに赴き、遺物を自ら拾い集めた、ということで、古物への熱意がわかります。これらの数多くの古物を展示するスペースを造ることも、アボッツフォードの増築目的の一つでした。

第二期の改築が終わった翌年1826年に、スコットに思わぬ災難が降りかかってきます。

エディンバラの大手出版社アーチボルド・コンスタブル (Archibald Conastable)社が倒産し、その膨大な負債が、スコットの出版パートナー、ジェームズ・ヴァランタイン( James Ballantyne, ?) にも及んだのです。当時は、負債に責任制限が設定されておらず、その負債は、ジェームズのビジネスパートナーであるスコットにまで及ぶことになってしまったのです。

改築が終わったばかりのアボッツフォードが、負債の支払いのために、差し押さえられてしまいました。

スコットは債権者達に嘆願し、アボッツフォードを信託管理下におくことに成功、スコットと家族は、スコットが創作を続ける間という条件付きで、賃料無しでアボッツフォードに住み続けることを許可されます。

スコットは、アーチボルド・コンスタブル社の巨額の負債の支払いのために、朝早くから夜遅くまで、創作を続けます。なかば強制的なその長時間の著作活動と、ストレスはスコットの寿命を短くしたかもしれません。

負債を負うことになった1826年以降に、発表された著作は、少なくとも以下に挙げるものがあり、早朝から夜遅くまで、スコットが書き続けたことを、今に伝えます。

1827年 The Life of Napoleon Buonaparte (1827)

1828年 Religious Discourses (1828), The Fair Maid of Perth 1828)

Tales of a Grandfather, Being Stories Taken from Scottish History (1828), 

1829年 Anne of Geierstein (1829),

1830 Essays on Ballad Poetry (1830 ), The History of Scotland: Volume II (1830),

1831-32年 Letters on Demonology and Witchcraft (1830), Tales of a Grandfather: Being Stories , Taken from the History of France (1831) Count Robert of Paris and Castle Dangerous (1832), The Siege of Malta (1831-32), Bizarro (1832),

スコットは、数多くの著作の出版により、負債を全額、返済しました。しかし、長時間の執筆活動は、スコットの健康に影を落とします。

スコットは 1832年、アボッツフォードのツィード川を眺めるダイニングルームの一角で、家族に囲まれ、静かに息を引き取りました。61歳でした。

スコットの家は、1階の主要な部屋が公開されています。スコット自身が語っていることをイメージしたガイド音声を聴きながら、部屋を巡るという楽しいものでした。

スコットの収集物が展示されているエントランスホール
エントランスホールの暖炉、メルローズ・アビーの回廊にある出入り口を模している
スコッツが執筆したデスク、椅子も当時のまま
椅子はさすがに古びている、引き出しの中の私物、ペン、メガネ近くで見ることができる。
ライブラリー、左の胸像はスコット、真ん中辺に見える胸像はシェイクスピア、肖像画は軍人だったスコットの長男、中央のガラステーブルにはスコットが収集した古物(メアリー・ステュアートのドレスの切れ端など)が並ぶ。
ダイニングルーム、この部屋の窓際でスコットは息を引き取った。
ツイード川を眺めるのが好きだったスコットの希望で、この窓際にスコットのベッドが置かれ、スコットはここで亡くなった。
スコットが最後に見たであろう風景。
アボッツフォード全景、塔がいくつもあるスコティッシュ・バロニアル様式。広大な敷地内に、散歩コースがいくつもあり、スコットの生涯を説明する展示が、ビジター・センターにある。

スコットの子孫は今は途絶え、アボッツフォードは信託団によって運営されています。

参考 : Abbotsford, The Home of Sir Walter Scott, edited by Kirsty Archer-Thompson FSAScot, Thomson Colour, 2022., ワシントン・アーヴィング、『ウォルター・スコット邸訪問記』、岩波文庫、2006.