ヒストリックハウス名:ブレア・カースル

所在地域:スコットランド

訪問:2023年6月30日

小塔が上部につけられているスコティッシュ・バロニアル様式

スコットランド中部から北部は、ハイランド地方と呼ばれ、ハイランド地方の南端に、ダンケルド(Dunkeld)という小さな町があります。2023年夏の旅では、このダンケルドに5泊滞在し、近郊の邸宅を訪ねました。

ダンケルドから、車で20分ほど北上したところにあるのが、今回ご紹介するブレア・カースル。丘陵がつらなるイングランドとは景色が違い、どこまでも山々が連なるハイランドの壮大な景色が続きます。

私が、ブレア・カースルを訪れたのは、6月末で、スコットランドでは盛夏の時期ですが、フリースにレインコートを着てちょうど良い、という冷涼さでした。

ダンケルドから北上するにつれ、どんどん温度が下がり、暗くなっていく感じで、冬はさぞかし…寒くて暗いだろうな!と想像します。

ブレア・カースル近辺は、国立公園として保護されている針葉樹林が広がります。これらの多くは、第3代アソル侯爵が熱心に植林したカラマツの木ということです。一本一本の木の背丈がとても高いのが、印象に残りました。

ブレア・カースルは、外観はシンプルなのですが、内装はとても豪奢。今回は、ブレア・カースルにヴィクトリア女王を迎えた第6代アソル公爵を中心に書きます。

George Murray, 6th Duke of Atholl(1814-64)、 ジョージ・ムレィ、第6代アソル公爵

ジョージ・ムレィ(以下ジョージ)は、1837年に23歳で父グレンロイン卿の爵位を継ぎ、1846年に32歳で、第6代アソル公爵を承継しました。母、エミリー (Emily Fraces Percy, 1789-1844 )は、イングランドの歴史ある貴族、第2代ノーザンバーランド公爵ヒュー・パーシー(Hugh Percy, 2nd Duke of Northumberland, 1742-1817)の娘。妻、アン(Anne Murray, Duchess of Atholl, 1814-1897)は、エディンバラの実業家で領主のヘンリー・ホーム・ドラムンド( Hery Home-Drummond, 1783-1867)の娘です。

ジョージの父親は、第4代アソル公爵ジョン・ムレィ(1755-1830)の次男グレンロイン卿(Lord Glenlyon, 1782-1837)で、生まれながらの次期公爵ではありませんでした。しかし、伯父の第5代アソル公爵のジョン(1778-1846) には、子供がおらず、父グレンロイン卿は、第5代公爵ジョンより早くに亡くなったため、ジョージが第6代アソル公爵を継承することになったのです。

第5代公爵ジョンは、精神疾患を患っていたため、ジョージは公爵を継承する前から、

アソル公爵の名代として、ブレア・カースルとその領地を取り仕切っていました。

ジョージは公爵家の次男として育った父、イングランドの歴史ある貴族の娘である母のもと、スコットランドとイングランドの伝統と文化の両方を、見聞きしながら育ちました。そして、生まれながらの承継者ではないけれども、伯父の第5代公爵ジョンの具合が思わしくない中、周囲も自然と、活気あふれるジョージを、次期公爵として、期待をもってみるようになっていきます。

ジョージは、独創的な発想ができ、またその発想を計画して、実現する能力に長けた人物でした。

19世紀前半、イギリス上流階級では中世回帰の志向が高まっていました。そのきっかけとなったのが、ウォルター・スコットによる『アイヴァンホー』、『ウェイバリー』などの中世を描いた歴史小説です。(本サイト、「アボッツフォード」参照)これらの小説の中では、自然と共生する中世の人々の暮らし、ゴシック建築の居城と教会、騎士や領主の美徳などが、美しく、そして情緒的に描かれています。

産業革命で、工業化、機械化が進む世の中にいる人々にとって、小説の中で描かれる中世の情景はみずみずしく新鮮で、今は無き中世世界は、19世紀前半の人々の憧れの対象となっていきました。

一方、1838年6月28日のヴィクトリア女王の戴冠式は、メルヴァーン首相の「浮かれ騒ぎをやっている時ではない」という方針のもと「ペニー・コロネーション」( Penny Coronation) と揶揄されるほどに簡素に行われました。歴代の君主の戴冠式の後に開催されてきた中世の伝統に則ったウェストミンスター・ホールでの豪華な大宴会は、経費節約の為、行われないことが、戴冠式前年に発表されました。

この大宴会こそが、中世への憧れを実際のものとし、中世そのままの儀礼服で参加してと…楽しみにしていた貴族たちは、多いに落胆します。

大宴会の他に、中世のイメージが集約されたものとして、「馬上槍試合」(jousting) がありました。これは騎乗した騎士が、向かい合って走り抜ける際に一騎討ちするというパフォーマンス的スポーツです。戦う騎士は、ピカピカに磨き立てられた鎧、甲冑に身を包み、馬は騎士の紋章をつけた絢爛豪華な装具で飾り立てられます。

中世では「馬上槍試合」の大規模な大会は「トーナメント」と呼ばれました。ヘンリー八世は「トーナメント」を好み、自らもたびたび出場しました。しかし、高齢になってからの出場で大怪我をして、その大怪我が原因で亡くなったとも言われます。

戴冠式の大宴会が開催されないことを知らされ、中世に憧れる上中流階級の人々は、中世への情熱を「トーナメント」に、俄かに向けはじめます。

1838年4月サミュエル・プラット(Samuel Pratt) が、ローワー・グロブナー・ストリートに、「甲冑ショールーム」(armour showronns)をオープンし、「トーナメント」への憧憬は、眼に見える形となりました。ショールーム開店と同時に、解説つきの「カタログ」も発行され、人々は郵便でカタログを受け取り、中世風の甲冑を注文できるという、当時は画期的だった通信販売が可能となりました。

中世回帰ブームの中、自分の紋章をつけた兜や、甲冑、トーナメント用の馬具を揃えたい…と願うのは自然な流れだったことでしょう。

同年8月には、『The Tournament 』(Lord Burghersh, later the eleventh Earl of Westmorland, 1838)というオペラがにセント・ジェームズ・シアターで上演され、「トーナメント」への気運は一層、高まります。

オペラを観て、気持ちが盛り上がり、トーナメント用の装具は、発注済み…

となると、次は実際のトーナメントは、いつ、どこで!!と気運が高まります。

そんな人々の熱い願望を、実現したのが、スコットランド、エアシャー(Ayrshire)の若き貴族、エグリントン卿(Archibald Montgomerie, later 13th Earl of Eglington, 1st Earl of Winton, 1812-1861) でした。

エグリントン卿の継父、チャールズ・ラム(Charles Lamb, 1775-1834)は戴冠式の大宴会で儀礼長を務めるはずだったのが叶わず「トーナメント」で自分が活躍することを多いに期待、またプラットはトーナメントに無限のビジネスチャンスを確信。

この二人が、26歳のエグリントン卿に、「トーナメントの歴史的、国家的意義」や「トーナメント開催は半ば義務」などと、切々と語り続けたのです。

中世騎士を崇敬するエグリントン卿は、公的な義務の遂行を重視していました。そんなエグリントン卿は、「トーナメントの実施」は、社会的な義務、であるという考えに至り、義父、プラットの説得を、素直に受け入れたのでした。

トーナメント開催日は、1839年8月28日に決定されます。

開催の知らせを受け、ジョージは、多いにやる気をかきたてられます。ジョージは、参加するのは勿論のこと、ハイランドの正装に身を固めた連隊をつれて参加することを決意し、領地住民に参加を呼びかけます。

トーナメント当日、ジョージは正装した78人からなる連隊「アソル・ハイランダーズ」(Atholl Highlanders)を引き連れ、華々しく登場しました。連隊は、参加した12人の騎士の中で、最大の規模でした。

観客は、少なくとも10,000人以上と言われ、スコットランド、イングランドだけでなく、カルカッタ、コペンハーゲン、アメリカ、ヨーロッパ全土から、貴族だけでなく、一般の人々も集まりました。

事前申し込みさえすれば、観覧料は無料。エグリントンは、グラスゴーの南20マイルほどのところにありますが、リバプールからグラスゴー、グラスゴーからエグリントンの近くまで鉄道が開通したことが、観客を増やしたようです。

大勢の観客を集めたトーナメントは、あいにくの悪天候で初日は散々だったようですが、後日、天候が回復してから再開され、トーナメント後には中世風の宴会、2,000人以上が参加した中世大舞踏会も行われました。

参加した騎士12人の中でも、78人の連隊を引き連れたジョージは、際立った迫力があり、その独創的な「本物志向」ぶりは、参加者、観客のお土産派話の中心になり、ジョージの名を人々の中に拡めることになりました。

エグリントンで、ジョージが身につけた武具、白熊は特に関係ないようです。
エグリントンで馬に着せた装具など

3年後、1842年9月7日ヴィクトリア女王がダンケルドを訪問。ダンケルドでは、近郊の住民数千人が集まり、女王を大歓迎しました。数千人の人々が小さな町、ダンケルドに集まるというのは、これまでに無いことで、女王の安全を確保するために、エグリントン・トーナメントのために結成された、「アソル・ハイランダーズ」が再結成され、女王の護衛の大役を務めました。

ヴィクトリア女王は、ダンケルドでの人々の歓迎をうける間、タータンの正装に身を固め、バグパイプの演奏を伴う「アソル・ハイランダーズ」のスコットランド式護衛に終始、護られていたのでした。

ハイランドをすっかり気に入ったヴィクトリア女王は、2年後、1844年に同地での静養を決め、ブレア・カースルを3週間、滞在させてほしいとジョージに連絡してきます。

ジョージは、女王を迎えるためにブレア・カースルから私物を引き上げ、、女王専用の家具をロンドンに発注、内装を整えました。ジョージの家族は、女王の滞在中、カースル近くのコテージで過ごし、カースルは3週間の間、女王専用となりました。

そして、女王の滞在中、再び、「アソル・ハイランダーズ」が昼夜、女王の護衛を務めました。

忠実で勤勉、バグパイプの音を伴う「アソル・ハイランダー」の護衛に、いたく感激した女王は、「アソル・ハイランダーズ」が、シンボルとして女王の旗を持つことを許可します。これは、女王の公式な護衛連隊であることを意味しました。

そして、女王はブレア・カースルでの3週間の滞在で、ハイランドをすっかり気に入り、自身の別荘をハイランドに新たに持つことを決意し、バルモラルの土地を購入しました。(当サイト、バルモラル参照)

ヴィクトリア女王のために用意された家具

尚、ジョージの妻アンは、長年、ヴィクトリア女王に女官として仕え、ヴィクトリア女王はバルモラルから、たびたびブレア・カースルにアンを訪ねました。

ジョージと妻アンが、ヴィクトリア女王夫妻を迎える際の正装

エグリントン・トーナメントのために結成された私兵連隊「アソル・ハイランダーズ」

は、女王に認められた正式な連隊となり、今もヨーロッパ唯一の私兵軍として、その伝統を受け継ぎ続けています。

ジョージの独創的な発想と実行力は、女王に認められ、現在にまで続く私兵軍となりました。

ジョージが創った「アソル・ハイランダーズ」の意義は、ハイランドに住む人々が、自分たちの歴史と文化を、誇りをもって引き継いでいける確かな「形」である、ということです。ジョージが創った「形」は、エグリントンでの活躍より、ずっとずっと大きなものを後世に残したといえるでしょう。

私が、ブレア・カースルを訪問した際は、「アソル・ハイランダーズ」の方が、カースルの外で、バグ・パイプの演奏をしていました。

バグパイプは、戦時、行進のときに使われたとのこと、遠くまでよく響く

冷たい空気の中で、聞くバグパイプの音の響き。どんよりと曇った空。針葉樹の深い緑。

ヴィクトリア女王に共感…また、ハイランドに戻ってきたいと思うのでした。

エントランスホール、多くの武具で装飾されている
階段ホールには、肖像画が所狭しと並ぶ、木彫りのリボンの肖像画フックが目を惹く
ステートベッドルーム、ホリールードから持ち出したベッドのこと
日本の上皇様ご夫妻が、皇太子ご夫妻だった時代に、このお部屋に泊られた
重要書類を入れるキャビネット、後ろの部分に引き出しがたくさんある
グレートホールには、鹿の角が並ぶ
「アソル・ハイランダーズ」が集うグレートホール
食器が収納されているチャイナ・ルーム、地震は起こらないようです
鹿の角は、このように照明や家具など、いろいろなところでリサイクルされている
ダイニングルーム、暖炉、天井の石膏細工の美しさ。
エアシャーのエグリントンは、今は廃墟となり、カントリーパークに。(2023年6月26日訪問)
誰もいなかった早朝のエグリントン、170年ほど前、人々はここでトーナメントに熱狂した

参考 : 

Mark Girouard, The Return to Camelot, Chivalry and The English Gentleman, Yale UP, 1981., 

Jane Anderson and Sarah Troughton, Blair Castle, The Story of the Atholl Family, their Castle and their Land, Blair Castle Estate, 2014.