ヒストリックハウス名:ブランセプス・カースル

所在地域:ダーラム

訪問:2023年7月4日

ブランセプスの地下には、古代?の住居跡がある

前編では、16世紀のブランセプスの当主、ロバート・カーについて書きました。

ジェイムズ1世(1566-1625)はロバート・カーから没収したブランセプス・カースル(以下ブランセプス)を、皇太子チャールズ(1600-1649) に与えました。しかし、国王となったチャールズ一世は、借金過多で、ブランセプスは借金先のロンドン市に差し押さえられてしまいます。

その後、1636年にニューカースルの商人、ラルフ・コール(Ralph Cole, d.1655) がブランセプスを購入しますが、1642年ニューカースルの町がスコットランド軍に占拠されると、ブランセプスはスコットランドに没収されてしまいます。

その後、多額の罰金を払って、コールはスコットランドからブランセプスを買い戻したのち、死去。1669年に息子ラルフが相続。しかし浪費家のラルフは破産し、ブランセプスは、軍人ヘンリー・ベラーズ (Sir Henry Belasyse, 1648-1717) に売り渡されます。

ベラーズの息子ウィリアムから、その娘のブリジット、ブリジットの従兄弟のヘンリーへと当主は変わり、ヘンリーは相続するとすぐに、ブランセプスを売却。ジョン・テンペストが購入し、その甥のヘンリー・ベインに引き継がれると、ペインはすぐにブランセプスを売却。

1796年に銀行家で石炭業で財を成した、ウィリアム・ラッセル(William Russell, 1735-1817)が、ブランセプスを購入します。前述のように、当主が頻繁に変わったブランセプスですが、ラッセルが購入してから、約250年間、1948年までは、ラッセルファミリーが継続して、ブランセプスの当主でした。

ブランセプスは、チャールズ1世の時代、裁判を待つ囚人の住居で、修繕は最低限しか行われませんでした。そして、次々と当主が変わる間、ブランセプスは修繕されることなく、ブランセプスは、ただ朽ちていき、ラッセルが購入した時には、廃墟同然になっていたのでした。

ウィリアムは、ブランセプスに住むことはなく、死亡し、1817年にウィリアムの息子、マシュー・ラッセル(Matthew Russel, 1765-1822) が承継します。

途中で、石の種類が変わり、上にいくほど新しい石に。改築の軌跡がよくわかる。

マシューの時代に、ブランセプスは、現代まで残る中世風の城として、生まれ変わります。その生まれ変わりを陣頭指揮したのが、今回の主役、チャールズ・テニスン(以下テニスン)です。

Charles Tennyson d’Eyncourts (1784- 1861)

マシューは、ブランセプスを相続すると、妻のエリザベスと共に、廃墟同然のブランセプスを中世風の城に改築することを決意します。

ブランセプスの再建にあたり、マシューはスコットランドの建築家ジョン・パターソン(d.1832)に依頼しました。パターソンは、建築家ロバート・アダムの下で、1791年まで働いた経験があり、中世風の外観に、エレガントなクラシックスタイルのインテリアを組み合わせる「カースルスタイル」を得意とし、その実績は高く評価されていました。

しかし、ブランセプスの再建で、陣頭指揮をとったのは、建築家パターソンではなく、マシューの妻エリザベスの弟、テニスンでした。マシューがエリザベスと結婚したとき、テニスンは、まだ14歳。マシューにとっては、かわいい義理の弟、といった感じでした。

テニスンは、この頃、上流階級の人々の間でトレンドだった「中世回帰」趣味に没頭していました。中世騎士、ゴシック建築に強い関心をもつテニスンは、マシューを度々訪れては、ブランセプスの再建においては、中世が「正しく」再現されるべきと、熱心に話すのでした。そして、テニスンは、パターソンが描いた図面について、あれこれと改善点を指摘し、パターソンは、ゴシック建築、中世世界について詳しくないことを、暗に仄めかすのでした。

ブランセプスの再建が始まる1817年頃、テニスンはすでに30歳をすぎていましたが、マシューにとっては、かわいい義理の弟であることに変わりはなく、また、建築の細々したことを、会うたびに指摘されるのも、だんだんと煩わしくなってきたこともあって、ブランセプス改築の陣頭指揮を、テニスンに任せることにしたのです。

パターソンは、建築家でもないのに、あれこれ指摘してくるテニスンには、「勘弁してくれ」という気持ちもありましたが、マシューの手前、あからさまに嫌な顔もできず、テニスンの意向を尊重して、工事を進めました。

その結果、ブランセプスには、ふんだんに中世的要素が加えられました。ウェストモーランド・タワーとコンスタブル・タワーには、小塔が付け加えられ、北東にあったネビルタワーは、取り壊されて、ラッセル・タワーとエントランス・ゲートを新築。ラッセル・タワーには、中世の武具武装品を展示するギャラリーが新設され、ギャラリーに展示するための十分な数の中世の武具武装品をテニスンが選び、マシューが購入しました。

テニスンの意向で、造ったゲートタワー
テニスンの意向で増築したコンスタブルタワーの塔。石はさほど古く見えない。
テニスンの意向で造った武具ギャラリー。当時は、甲冑などの武装がびっしりと並んでいた。床の寄木細工が美しい。

このブランセプスの再建に、マシューは25万~30万ポンド(当時)を費やしました。しかし、マシューは1822年に死亡し、ブランセプスの完成を見ることはありませんでした。マシューの死後、マシューの息子、ウィリアムがブランセプスを相続し、テニスンとパターソンは、工事を継続、ブランセプスは、1823年に完成します。

中世のハンマービームを模した天井飾り。窓もテニスン好みのゴシック様式。
ドア周りに、ゴシック様式。テニスンの妥協しないゴシック趣味が伝わってくる。
バロンズホールの天井は、ゴシック式のヴォールト天井。ちょっと唐突な印象。
ダイニングルームも、もちろん、という感じでヴォールト天井。このダイニングルームは現在の当主、ホブソンさんが使っている。
ブランセプスは、2つの対戦中、イギリス軍が基地として貸借していました。グリーンのペイントは、軍によって塗られました。ゴシック式天井に軍隊のグリーンという組み合わせの大階段。
大階段を下から見上げる。軍が使っていたときは、将校、兵士が毎日夥しく行き来していた。
ゴシック式の窓の中に、クラシック様式の柱が配置されている。パターソンの密かな抵抗がもしれない。

ブランセプスを、廃墟から「現代の中世の城」へと復活させたテニスンは、「中世」への情熱を、今度は、政治へ向けていきます。

テニスンは、1831年にスタンフォード選挙区で当選し、下院議員となります。そして、人権重視、選挙権拡大などを主張する「急進派」として政治活動をします。

1835年にテニスンの父が亡くなると、テニスンは実家である邸宅ベイヤンズ・ホールを相続し、すぐに邸宅の名前を、中世風のベイヤンズ・マナーに変更します。また王から許可を得て、自身の苗字に、母の祖先の中世名で、エドワード3世の子孫であることが示されるデインコート(d’Eyncourt)を追加します。

テニスンは、ベイヤンズ・マナーを「正しい」中世の邸宅とするために、塔を建設し、その塔に銃眼をつけます。そしてベイヤンズのグレート・ホールは、中世のグレート・ホールを完璧に再現していたと言われています。また、邸宅を城壁で囲み、背後の丘の上には、わざわざ城砦の廃墟を作る念の入れようでした。

丘の上の城砦の廃墟というのは、征服王ウィリアム1世(1027?-1087)の時代に建てられた城砦が廃墟になって残っていることをイメージしているものです。廃墟は、本来は、11世紀から我が一族は、ウィリアム1世の命を受けて、この地を支配しているんですよ、という一族の伝統を示すものです。が、テニスンの場合は、その伝統を醸し出すために、「イメージ」として造ったのです。

ウェールズのカーディフ・カースルでは、本来の丘の上の城砦廃墟を、今も見ることができます。(本サイト、カーディフ・カースル参照)

テニスンの政治活動では、「急進派」として、人権重視、選挙権拡大を重視する一方で、中世から続くテンプル騎士団のイギリス支部を設立しています。

「中世回帰」と「急進派」は一見、相入れないように思えます。

中世社会では、領民は領主のために働き、領主は領民を保護していました。しかし、産業革命後は、労働者は、効率化の渦に巻き込まれ、保護されることがなくなり、悲惨な生活を送らざるおえない人が、多くなりました。そうした悲惨な労働者の保護を訴えて、人権重視を主張する人々にとっては、中世回帰と急進派は、十分に両立するものだったのです。

テニスンと同じように「中世回帰」を標榜しつつ、人権を主張をした人々として、ニューステッド・アビーをゴシック様式に改築したトマス・ワイルドマン(Thomas Wildman, 1787-1859)(本サイト、Newstead Abbey, ニューステッド・アビー参照)、ネブワースのエドワード・ブルワード・リットン (Edward Bulwer-Lytton, 1803-1873)(本サイト、Knebworth House, ネブワースハウス参照)、ダーラム卿 ( John Lambton, 1st Earl of Durham, 1792-1840) らが挙げられます。

テニスンの邸宅、ベイヤンズ・マナーは、廃墟となり取り壊され、今は門の一部しか残らないようですが、ブランセプスはその後、1948年までラッセル一族の子孫が住み、さらにその後、当主が変わり、第一次世界大戦、第二次世界大戦と二つの大戦の前後は、軍が借り上げて、駐屯地となりました。建物の使用目的は変わるものの、取り壊されることなく、現在はドブソンファミリーの邸宅となっています。

現在のブランセプスの構造は、テニスンとパターソンが建築した時から、大きくは変わっておらず、テニスンの中世趣味は、200年経った今も、ブランセプスの中で見ることができるのです。

桂冠詩人として知られるチャールズ・テニスン卿(Sir Charles Tennyson, 1809-1932) は、テニスンの甥で、テニスンの兄ジョージの息子です。テニスンの父は、テニスンが12歳のときに、兄ジョージの邸宅相続権を無効にし、テニスンを相続人としました。兄ジョージは、父の意向で牧師になりますが、ジョージ一家と、テニスン一家の間には終わりなき確執が生じ、テニスンは桂冠詩人となったチャールズ・テニスンの作品について、ひどく否定的な発言をしていました。

ジョージの邸宅相続権の無効化は、テニスンの意向ではなく、テニスンの父の意向であったわけですが、この相続権の一件は、テニスンの人権重視思考の、発端となりました。テニスンは、自分の相続権について、繰り返し自問自答するうちに、人々の権利は、みな同じであるべきではないか。。。という答えに至ったのでした。

参考 : 

A brief history of BRANCEPTH CASTLE and its owners, Brancepth Archive & History Group, 2016.

Mark Girouard, The Return To Camelot, 1981.