ヒストリックハウス名:ラビー・カースル
所在地域:ダーラム
訪問:2023年7月5日

到着時、お城は、まだ開門前。

パークランド(庭園)はオープンしていたので、まずは散歩へ。城の南側には湖があり、湖の周りをぐるりと囲む散歩道があります。湖の西岸の道には、遠足にきた保育園児たちが、賑やかに歩いていました。

湖の周りには、白鳥が数多くいます。城、湖、白鳥の組み合わせは、いいですね。つい、うっとりと眺めます。ダーラム付近は、夏でも冷涼。冷たい空気に、この風景が合います。
ラビー・カースル(以下ラビー)については、1000年以上の記録が残ります。
1569年まではネヴィル一族が当主、1626年以降は、現在も含めてバーナード一族が当主です。
ネヴィル一族は、400年にわたりダーラム周辺に影響力をもっていましたが、エリザベス1世( Elizabeth I, 1533-1603) の治世下で、メアリー・ステュアート(Mary Stuart, 1542-1587) を支持したことで、一族は終焉を迎えてしまいました。
前編では、ネヴィル一族、後編ではバーナード一族について書きます。

Charles Neville, 6th Earl of Westmorland (1543-1601)
ウィリアム1世 (d. 1087) が、イギリスを征服する前、イギリスは北欧からやってきたクヌート王(King Cnut, 990?-1035)によって統治されていた時期がありました。
ラビーの記録は、クヌート王の時代から始まります。
クヌート王は、ラビーをスコットランド王マルコム2世の子孫であるダーラムの司教、ドルフィンに与えました。ドルフィンの孫、ロバート・フィッツモルドレッド(Robert Fitzmaldred)は、ノルマン人の女相続人イザベラ・ネヴィル(Isabelle Nevill) と結婚しました。そして、二人の息子ジョフリーが、母の姓ネヴィルを名乗ることを選んで以降、ラビーはネヴィル一族の城となりました。
イザベラの祖父の名前をつけたブルマー・タワー(Bulmer’s Tower)が今もラビーには、残ります。

第3代男爵ジョン・ネヴィルは、1378年にリチャード2世( Richard II, 1367-1400)から城の要塞化の許可を得て、現在のラビーの一部を建てました。ラビーが建設されるまで、ネヴィルの主城は、ブランセプス・カースル(Brancepeth Castle、本サイトでご紹介しています)でした。

1397年にジョンの息子ラルフは、リチャード2世から初代ウェストモーランド伯爵に叙爵されます。
ラルフの娘、シシリー(Cicely Neville, 1415-1495)は、エドワード3世の孫、ヨーク公爵リチャード(Richard, Duke of York, 1411-1460)と結婚し、この二人の息子たちは、王位につきます。エドワード4世(1442-1483)とリチャード3世(Richard III, 1452-1485)です。
エドワード4世の娘エリザベス( Elizabeth of York, 1466-1503) は、現在の英国国王の祖先であることから、シシリー・ネヴィルは、現在の英国王室の祖先の一人です。
第4代伯爵はヘンリー8世( Henry VIII, 1491-1547) の廷臣で、スコットランドと戦うなどして王に忠義を尽くし、第5代伯爵チャールズは、メアリー1世(Mary I of England, 1516-1558) の忠臣として、宮廷で高官を務めました。
しかし、今回の主役である第6代伯爵チャールズ(以下チャールズ)は、エリザベス1世の治世下で、微妙な立場に置かれることになります。
チャールズは、1564年2月10日に21歳で伯爵位につき、同年に第3代ノーフォーク公爵トマス・ハワード(Thomas Howard, 3rd Duke of Norfolk, 1473-1554))の孫娘ジェーン(Jane Howard, 1533/1537?-1593)と結婚します。
トマス・ハワードはヘンリー8世の廷臣で、姪2人(アン・ブリーン、キャサリン・ハワード)をヘンリー8世の王妃にしましたが、この2人共が姦通罪の罪で処刑され、またトマス自身もヘンリー8世から疎まれることになり、死刑になるところでした。
しかし、刑の執行直前にヘンリー8世が死去し、処刑をまぬがれました。
カトリック信者であったトマス・ハワードはメアリー1世によって釈放された後、死去。孫のトマス・ハワード(Thomas Howard, 4th Duke of Norfolk, 1536-1572、以下トマス)が、18歳で伯爵位を継ぎます。トマスは3度の女子相続人との結婚で領地を増やしてその影響力を増し、イングランド最有力貴族と言われるまでになっていました。
この第4代ノーフォーク公爵トマス・ハワードは、チャールズの妻となったジェーンの兄です。
チャールズの義理の兄トマスは、ハワード家がカトリック信仰であることを理由に、スコットランド女王、メアリー・ステュアートを支持していました。
トマスはチャールズより7歳年上、ジェーンは、チャールズより少なくとも6歳年上(生年に2説あるため)でした。トマスとチャールズの関係が、気になるところです。
チャールズの肖像画を見ると、優しい、慈愛に満ちた園芸家… という印象。
対して、肖像画のトマス・ハワードは、鋭い視線を送り、猛獣使いの迫力…
トマスは、チャールズにどのように接していたのか…
トマス (28歳)「チャールズ、我々の使命を、わかっているよね。正当な君主メアリー女王がイギリスの王座につくために、我々は今こそ立ち上がるときなんだよ。やるべきことが君には、ある!兵を結集し、進軍だ。そして、我々は偽の君主エリザベスから、イングランドを守るのだ!(そして我々の権力を増大させるのだ)」
チャールズ (21歳)「そうですね…」

結婚前のチャールズは、エリザベス1世に反する意向を持っていなかったという記録があり、カトリック信仰についても、それほどでもなかったようです。
しかし、ジェーンとの結婚後、チャールズはカトリック信仰をにわかに強め(ざるおえなく)トマス、ノーザンバーランド伯爵トマス・パーシー(Thomas Percy, 7th Earl of Northumberland, 1528-1572) と共にカトリックを信仰するメアリー・ステュアートをイングランド国王とするため、エリザベス1世に反抗する1569年の北部諸侯の反乱(Rising of the North)を起こしてしまいます。
700人の騎士が、ラビーに集まり進軍し、ノーフォーク公、ノーザンバーランド伯が率いる軍勢と共に進軍します。ところが、準備に不足があり、途中で軍資金が尽きてしまい、エリザベス1世軍と対峙するまでに至りませんでした。
チャールズは、オランダへ逃亡し、貧困のうちに死亡。領地全てとラビー、ブランセプスは、エリザベス1世に没収され、伯爵位も剥奪されました。
400年に渡り、ネヴィル一族の栄華を象徴していたラビー。
義兄にプレッシャーをかけられたチャールズの決断で、その栄華にいきなりピリオドが、打たれたのです。
チャールズは、こう言えなかったのでしょうか。
「義兄さん、今やるべきことは、時の君主、エリザベス女王に尽くすことです」と。
トマス・ハワードとトマス・パーシーは大逆罪で1572年に処刑されました。
ネヴィルの時代に造られたチャペルは、誰も立ち入ることなく19世紀半ばまで放置されていたそうですが、ネヴィル一族の棺群がチャペルにあることが20世紀初頭に発見されました。
その棺の蓋の彫像から肖像画が描かれ、ネヴィルたちの肖像画が、今はチャペルの壁面に並んでいます。



参考 : Robert Innes-Smith. Raby Castle. Jarrold, 2022,
