ヒストリックハウス名:ラビー・カースル

所在地域:ダーラム

訪問:2023年7月5日

外観は、要塞に見えますが、防御のための堀ではなく、美観のための湖が南側にある。
ゴシック様式の窓が、要塞風の塔についている
エントランス・ホール、馬車や馬がここまで乗り入れていた。クリーム色のヴォールト天井が美しい。
エントランス・ホールの壁、議会派が使った武器でしょうか
エントランス・ホールから2階への階段。歴代の君主の写真が飾られている。階段は急傾斜のように見える。

前編では、エリザベス1世に反旗を翻して、伯爵位とラビー・カースル(以下ラビー)を没収され、貧困のうちにオランダで亡くなったチャールズ・ネヴィルについて書きました。

今回は、17世紀初めに、王室からラビーを購入したバーナード一族について書きます。

Henry Vane the Younger (1612-1662)

ラビーを購入したのは、ヘンリー・ヴェイン(息子の小ヴェインと区別するために、以下大ヴェイン、Sir Henry Vane, 1589-1655)です。大ヴェインは、ジェイムズ1世、チャールズ1世に仕えた宮廷の高官でした。

ヴェインの息子ヘンリー・ヴェイン(以下小ヴェイン)は、ウェストミンスター校からオックスフォード大学マグダレン・ホールへ進学、大学を終えると植民地アメリカへ渡り、1635年10月に北米ボストンに到着しました。

22歳の小ヴェインは、マサチューセッツの知事となり、ハーバード大学を創設します。その頃、アメリカでは、アン・ハッチンソン(Anne Hutchinson, 1591-1643)が、説くキリスト教の教えが、人々への影響を強めていました。

アンは、アメリカ植民地で主流の教えであった教え(Covenant of works)とは異なる教え(Covenant of grace )を説きました。しかし、アンは既存聖職者達から猛烈な攻撃を受け、アンは1637年に裁判にかけられます。有罪となったアンは、教会組織から追放され、ポーツマスのロードアイランドに自分の子供たちと居住地をつくります。しかし、アンの影響力を恐れる既存勢力の攻撃で、ロードアイランドからも追いやられ、アンと子供達は、ニューヨークのブロンクスに逃れましたが、現地の部族シワノイ族に殺害されてしまいます。

植民地アメリカで既存勢力の弾圧に屈せず、新しい教えを説いたアンは、後に、アメリカにおける宗教の自由を象徴する存在の一人となりました。

マサチューセッツ州知事小ヴェインは、アンの活動を支持し、アンが説教を行う場所を確保しました。しかし、アンを擁護したことで、小ヴェインも植民地の司教達から疎んじられ、衝突します。現地勢力の反発で、知事を続けることができなくなった小ヴェインは、1639年、イギリスに戻りました。

22歳から26歳まで、4年間のアメリカ滞在中、小ヴェインの考えは、アンの影響もあり急進的になりました。帰国すると、王室海軍の財務官に任命された小ヴェインは、船税の徴収に関わりました。船税は、議会の承認を得ずに、チャールズ1世が私税として徴収していた税で、小ヴェインにとっては納得がいかない仕事でした。

小ヴェインがイギリスへ戻った頃、イギリスでは国王派と議会派が戦う清教徒革命が始まります。小ヴェインは議会派に賛同。そして、政府高官だった大ヴェインも1641年に議会派となり、ダーラムの知事に任命されます。大ヴェインは、小ヴェインの影響を受けて、議会派になったのでしょうか…

小ヴェインは、1640年にフランシス・レイ(Frances Wray)と結婚し、父からラビーを新居として与えられます。王領だったラビーは、国王と対立する議会派の拠点となったのです。

小ヴェインは、議会派に属してクロムウェルと活動を共にしました。小ヴェインは、1648年12月2日に、「王は政治的権力を持つべきでない」と議会で主張しましたが、チャールズ1世の処刑 (1649)には積極的ではありませんでした。

しかし、1662年に王政復古となると、小ヴェインはチャールズ2世 (1630-1685) により処刑されてしまいます。ヴェインは、人心を動かす演説が得意で、政治手腕もあり、著述にも長けていたので、「生かしておくには、危険すぎる」とチャールズ2世が判断したと言われます。

ラビーは、王室没収とはならず、小ヴェインの五男クリストファーによって承継されました。君主は、チャールズ2世からジェイムズ2世 (1633-1701) へと変わり、その次のウィリアム3世(William III, 1650-1702)の時代に、クリストファーは、バーナード男爵(1st Baron Barnard) に叙爵されます。

そして、クリストファーの孫、ヘンリー( Henry, 3rd Baron Barnard, 1st Earl of Darlington ) は、1754年にバーリントン伯爵に叙爵されます。ヘンリーは、小ヴェインを処刑したチャールズ2世と、愛人バーバラ・ヴィリヤーズ(Barbara Villiers, 1640-1709)の孫娘レディー・グレース・フィッツロイ(Lady Grace FitzRoy, b. 1697)と結婚します。

そして、ヘンリーとグレースの孫、ウィリアム・ヴェイン( William Vane, 1st Duke of Cleveland, 1766-1842) は、クリーヴランド公爵に叙爵されます(1833)。クリーヴランド公爵位は、チャールズ2世が、愛人バーバラに与えた位で、グレースの代で途絶えた爵位が復活したのです。

処刑された小ヴェインの曾孫は、処刑したチャールズ2世の愛人の孫娘と結婚し、小ヴェインの玄孫は、チャールズ2世が愛人に与えた侯爵位に叙爵された、という流れです。

ハーバード大学の創設者小ヴェインは、玄孫の時代になって名誉を回復できた、という見方もできます。

ラビーは、小ヴェインの時代は、改築されることはなく、公爵となったウィリアムが、1843年からスコットランドの建築家ウィリアム・バーン(William Burn, 1789-1870)を起用して大規模な増改築を行い、その姿が今に残ります。なかでも、オクタゴン・ドローイング・ルーム(Octagon Drawing Room ) は、当時の君主ジェームズ4世が好んだことで、トレンドとなったフランス様式の豪華な内装です。

オクタゴン・ルーム

中世の要塞風外観からはちょっと想像できない、お部屋です。ジェームズ4世は、人気がなかった君主ですが、彼のフランス装飾好みは、一部の貴族には影響したことがわかります。

天井の細工と一体化しているシャンデリア
ダイニング・ルーム、クリスマスには、従業員の方達を招いての着席ディナーがあるそうです
ドローイング・ルーム、19世紀前半にブームだった中国の置物が、存在感を示す

ラビーの当主は、現在も小ヴェインの子孫です。

私が訪れた2023年7月には、新ガーデンセンターの仕上げ工事中でした。新ガーデンセンターは、来年以降にオープンするとのこと。城を背景に、花壇が作られるようです。ダーラム地方は、夏でも肌寒くい気候。どんなお花が植えられるのかな? 

肌寒い空気の中で見る要塞風の城が、好きです。

風が強ければ、最高。厳しい環境の中にあってこそ、その城の本来の美しさや存在感が、発揮されるように感じます。

参考 : Robert Innes-Smith. Raby Castle. Jarrold, 2022.