ヒストリックハウス名:サットン・スカースデール・ホール

所在地域:ダービーシャー

訪問:2023年7月8日

「立派な廃墟」と表現したくなる。

ダービーシャーの教会を訪れた帰りに、たまたま見かけたので立ち寄った廃墟、サットン・スカースデール・ホール(以下サットン)。

大規模な廃墟は、住宅街の中にありました。

どんよりと重い雲が空一面を覆っている小雨の日。廃墟周りには、私一人。修復工事中で邸宅内には入れず、周りをぐるりと一周しました。

立ち入り禁止の囲みは中が見えるタイプで、全体像はわかる。

今日の主役フランシス・リケ(以下リケ)は、サットンの領地を母親から引き継ぎました。王党派のリケは、清教徒革命中、この領地をめぐって議会軍と激しく攻防しました。

Francis Leke, 1st Earl of Scarsdale (1581-1655)

リケは、エリザベス一世 (Elizabeth I, 1533-1603)の時代に生まれ育ちました。そして、リケが22歳のときにジェイムズ1世(James I, 1566-1625)が、即位。1611年、ジェイムズ1世が財政難の対策の一つとして、準男爵位(Baronet)の販売を始めるとリケは同年に購入しました。

準男爵位は、アイルランド、アルスター地方をイングランドの植民地にする費用をまかなうために設けられた新しい爵位。貴族ではないが、騎士(ナイト)よりは上という位置付けで、200人を上限として募集が、始まりました。誰でも購入できたわけでなく、年間1,000ポンド以上の地代がある土地をもつ地主で、父方の祖父が紋章をもっていることが当初、条件とされていましたが、これらの条件はだんだん曖昧になっていったようです。

そして、リケは、1628年、47歳の時にチャールズ1世(Charles I, 1600-1649) からデインコート男爵 (Baron Deincourt, of Sutton in the County of Derby) に叙爵されます。準男爵は、貴族ではなかったのですが、男爵は貴族の位で、リケは、ここではじめて貴族の仲間入りを果たします。

この1628年という年、チャールズ1世と議会は、税収の不足分を埋めるための「強制借り上げ金」の徴収を巡り衝突していました。チャールズ1世は、6月に議会を停会。8月にチャールズ1世の右腕として、政策を取り仕切っていたバッキンガム公爵(George Villiers, 1st Duke of Buckingham, 1592-1628) が暗殺されると、チャールズ1世は独断で、政治を行いました。

余談ですが、バッキンガム公爵はジェイムズ1世の愛人だったとされ、その辺りを描いたドラマシリーズ『Mary & George』(Starz)の配信が今年、米国で始まりました。とてもとても、観たいのですが、日本では残念ながらまだ未配信。題名のMaryは、バッキンガムの母親。メアリが、自分と息子の生き残りをかけて、バッキンガムを宮廷に送り込み、画策を成功させていく…という流れのようです。

話を元へもどして、清教徒革命は、1642年7月にチャールズ1世が議会軍との開戦を、宣言したときからとされますが、その10年以上前から、国王と議会の相互不信は、徐々に深刻化していました。

チャールズ1世は、1629年から31年にかけては、議会を開かず、「イノヴェーション」と呼ばれる改革を自ら行います。改革は30年戦争の戦費調達のための財政改革が主でしたが、その中には宮廷生活の見直し、すなわち、贅沢の追放、道徳の強化、位階秩序の厳格化、爵位の売却停止、新貴族の抑制、などが含まれました。質実剛健、忠誠心、モラルが高い人々が集う宮廷を目指したのです。

貴族になったばかりのリケは、チャールズ1世の方針を遵守、チャールズ1世への忠誠を固く誓ったのでした。

そうこうするうちに、国王軍と議会軍の内乱が勃発。次第に、優勢になった議会軍は、国王側についた王党派の領地を没収することを1643年に決め、領地没収委員会( Committee for Compounding with Delinquents, 1643)を設置しました。

没収委員会の運営管理事務所は、州ごとに設けられ、議会軍は武器をもって、王党派領主の領地に攻め入り、領地を占拠していったのです。

議会軍は、戦費調達を確実に行うことを目指して1646年1月に、事前警告を発表しました。同年5月1日までに指定された交渉金を支払い、今後、議会に背かないこと、王党派として活動しないことを誓約すれば領地は返却するとし、多くの領主がこの警告に従い、交渉金を支払いました。交渉金は、概ね土地から得られる年収の3倍ほどでした。交渉金を払った領主たちは手元資金が激減。議会派は、先祖代々の領地を失いたくない領主の気持ちに付け込み、資金調達を行なったのです。

1643年、サットンは議会軍500人の攻撃を受けましたが、リケは降伏を拒否、サットンは差し押さえられ、リケは牢獄送りを言い渡されました。しかし、リケは8日以内に、自らダービーに出向くことを約束し、即刻の連行をかわしました。

リケが議会派事務所に出頭することはありませんでした。

議会軍は、リケに交渉金の支払いを迫りますが、リケは支払いを断固拒否。

後日、議会軍が差し押さえたサットンを売却しようとしたとき、領地をあきらめきれなかったリケの息子が、友人に代理購入を頼み、後日、サットンはリケの息子の領地になります。このとき、リケの息子は友人に18,000ポンドを払いました。交渉金は支払わなかったけれど、リケの意思に反して議会軍に資金が、渡ることになってしまったのです。

清教徒革命中の1645年、領地を失ってまで国王への忠誠を貫いたいたリケはチャールズ1世より、スカースデール伯爵に叙せられます。その後、1949年にチャールズ1世は議会派により処刑されてしまいます。

左下1650の図が、リケが住んでいた邸宅イメージ

忠誠を誓う王が処刑されたとき、リケは68歳。議会軍に反する気力を失っていたリケは、サットン領地にある教会の傍に、自らの墓穴を掘りました。そして、74歳で亡くなるまで、毎週金曜になると、粗末な木綿衣を着て、その墓穴に横たわり、亡き国王を偲び、祈りを捧げました。

リケが亡くなった5年後、国外へ逃亡していたチャールズ1世の息子チャールズ2世はイギリスへ戻り、王位に復帰しました(王政復古, 1660)。

忠誠を誓った王が、まさか処刑になるとは… そのとき、忠誠の心は一体どこへ向ければよいのか… 国王への忠誠に、言及することが反社会的行為になってしまった世の中で… 

社会体制と自分の心が一致しなくなってしまったとき、人は一体どうするのか… 

リケは自分の墓穴に横たわり、祈るほかなかったのでした。

リケの死後、サットンの邸宅は、リケの息子ニコラス(Nicholas Leke, 2nd Earl of Scarsdale, ?)からリケの孫ロバート(Robert Leke, 3rd Earl of Scarsdale, d. 1707)に引き継がれ、子供がいなかったロバートからはロバートの甥のニコラス(Nicholas Leke, 4th Earl of Scarsdale, 1682?-1736) に引き継がれました。

ニコラスは、多額の借金をして、サットンを増築します。現在に残る廃墟は、ニコラスの時代に、建設された邸宅です。ニコラスは、膨大な負債の返済のために、自分の死後、サットンが売却されざるおえないことを知っても、尚、借金を増やし続け、建築を続けました。

未婚だったニコラスの死後、サットンは負債返済のために売却され、スカースデール伯爵位は消滅となりました。

ニコラスには、婚外子は3人いて男子もいたそうです。負債が子供に及ぶのを避けるため、あえて結婚をしなかったのかもしれません。

邸宅の裏側、右の森の中に教会があり、リケはこの教会に眠っている

ニコラスが最後になったスカースデール伯爵位は、消滅後、他の人物には与えられてはおらず、イギリス王室がリケに敬意を示しているのかな、とこれも私の推測です。

リケが観たであろう邸宅前の風景

参考 : 『世界歴史大系 イギリス史2 ー近世ー』今井 宏(編)、山川、1999.